PR誌「ちくま」特別寄稿エッセイ

二丁目にどんな過去があるか
新宿二丁目の煌めき・3

PR誌「ちくま」4月号より李琴峰さんのエッセイを掲載します。

 街にはそれぞれの歴史がある。私達は歴史の積み重ねの上で生きている。
 言ってみれば当たり前のことだが、なかなか実感を持つのが難しい。七千万年前に日本列島はアジア大陸と繋がっていて日本人はみなそこから来ているのだと言われても、今住んでいる家は数十年前は戦後の焼け野原なのだと言われても、多くの人は「あっそう?」「だから?」と言うだろう。歴史には女性天皇がたくさんいると分かっていても保守派は伝統維持のために天皇は男性でなければならないとこだわり、アイヌ人という先住民族がいるにもかかわらず自民党の大臣は日本は二千年にわたって一つの民族しかないと言い続ける。
 歴史に関してもし現政権に教わったことがあるとすれば、それは、歴史というのは時の権力者の都合によっていとも簡単に歪められ得るということのみである。それと比べ、書物から得る学びの方がずっと大きい。
 二丁目の歴史を教えてくれたのが、三橋順子『新宿「性なる街」の歴史地理』(朝日新聞出版)である。この本を読んではじめて、それまで何気なく通っていた新宿の街に眠っている数多の記憶と物語を知り、それ以来、街の景色がまるで違うように見えた。夜な夜な人が集まる人気ゲイバー「AiiRO CAFE」は昔は「はるな」という赤線の店で、かつて新宿遊廓のメインストリートである大門通りが今の要通りになっており、「茂利家」は売春の生業をやめて今は同じ屋号で鉄板焼屋を営んでいる。何より、今やセクシュアル・マイノリティを主体とする新宿二丁目は、昔は男が女を買う売春地帯だったというのが驚きである。
 私達は一体どんな歴史の上で生きているのだろう。それを忘れるととてもまずい気がする。
 しかし新宿歴史博物館を訪ねると、歴史が選択的に忘れ去られようとしているのが分かる。
 旅籠屋から、遊廓、赤線、青線。売春地帯として繁盛した新宿だが、歴史博物館ではまるで消毒されているかのように買売春の歴史への言及がほとんどなかった。ミュージアムショップで販売されていた、一九三五年頃の地図をもとに作られた「新宿盛り場地図」に至っては、まさか新宿遊廓の妓楼があった場所が灰色に塗られ、「その他娯楽場」と雑に括られている。年表でも当然ながら、一九二二年に「新宿遊廓開業」の記述が見当たらない。
 新宿二丁目には太宗寺という寺がある。夏目漱石が境内の地蔵菩薩像に上って遊んでいたという逸話はよく知られているが、閻魔堂の玉垣に刻まれている文字に目を留める人はそんなにいないかもしれない。それらの刻銘は「不二川楼」「港楼」など、かつての新宿遊廓の妓楼の名前を示しているのだ。どんなに隠そうとしても、歪めようとしても、忘れようとしても、歴史を完全に消し去ることは不可能である。
 拙著『ポラリスが降り注ぐ夜』(筑摩書房)も、歴史を刻もうとする努力の一つである。前へ前へと突っ走ろうとするこの時代だからこそ、しばし立ち止まり、土地で眠っている歴史を紐解き、昔の物語に耳を傾け、その上で自分達の歴史を書き綴っていく必要があると思う。自分達のよって立つところを確認するためにも、である。

PR誌「ちくま」4月号

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