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第3回 われらは傷を修復する――『進撃の巨人』論(1)

アナキスト/フェミニストの高島鈴が、社会現象級の大ヒット作を正座で熟読。マンガと社会を熱く鋭く読み解く、革命のためのポップカルチャー論をお届けします。
最終回となる第3回は、累計発行部数が世界で1億部を超え、今年完結を迎えた諫山創『進撃の巨人』(2009~21年/講談社)。この歴史に残る作品は、いかに歴史を描いたのでしょうか。

●「森の外」へ出るために
 漫画史上、2021年は何の年か。そう問われたならば、筆者は間違いなく諫山創『進撃の巨人』(講談社)が完結した年だと答えるだろう。
 同作は人類を不条理に捕食する謎の存在「巨人」が跋扈し、人類が巨人の脅威を逃れて三重の壁の内側へ逼塞して暮らす世界を舞台に【1】、「自由」を渇望する少年・エレンの歩みを描くファンタジー作品だ。2009年に『別冊少年マガジン』で連載が開始され、「このマンガがすごい! 2011」オトコ編(この男女二元論による区分は非常に問題含みだが、現在も利用されている)では1位を獲得した。その後アニメ化を経て発行部数は爆発的に伸び、累計発行部数は世界で1億部を超えている。
 少年漫画を革命に引き付けて語るこの連載において、一番最後に『進撃の巨人』を取り上げることに迷いはなかった。同作は世界規模の戦争、歴史認識問題、民族差別などのアクチュアルなテーマを扱いながら、時代の波に翻弄され、戸惑い、それでも抵抗のために立ち上がる者に光を当てる。批判すべき描写がないとは全く思わないが、社会変革を考える上で読み解く価値を大いに含んだ名作であると、筆者は考えている。
 前回の『呪術廻戦』論では、社会正義が敗北した社会で労働モデルに縛られた絶望的な状況で戦う少年たちの「出口のなさ」を論じ、この出口のない苦しみを誠実に描くことが作品の痛切な魅力に繋がっていると評した。一方『進撃の巨人』は、絶望的状況の出口を探す人びとの苦痛、その足取りの迷いを最後まで描き切った点で白眉である。
 本稿は「歴史」を一つのテーマとして、34巻にわたる『進撃の巨人』の叙述を見渡してみたい。作中、登場人物たちはみなそれぞれに「どうしてこうなってしまったのか」「もっと他によい選択肢がある/あったのではないか」と葛藤し、罪と責任、そして先の見えない世界の複雑さに戸惑い続ける。われらもおそらくは今、同じような状況にいるのではないか。際限なく互いの命を食い合う場所を打ち壊し、その外へ出るために、本連載は『進撃の巨人』論で幕を閉じる。

●歴史とは何か
 なぜ歴史をテーマに『進撃の巨人』を語るのか? それは同作が描く巨大な戦争が、歴史的な憎悪によって引き起こされるからである。
 そもそも歴史とは何か。「歴史」と言って真っ先に想起されるのは、おそらく義務教育で配られる検定教科書に書かれたテキスト――いわばナショナル・ヒストリー――だろう。そしてその了承の背景にあるのは、専門家による承認だ。「1600年に関ヶ原の戦いが起きた」、「1877年に西南戦争が起きた」などといった語りは、それが「事実」であると専門家に認められているがゆえに、社会の共通認識として流布する。
 しかし、われらが日常の中で引用する過去は、歴史教科書に掲載される叙述とは全く別の姿をしているのではないだろうか。「うちは祖父が破産してるから、子どもの頃から借金だけはするなって教えられてきたんだ」「私は5年前に転職して、フリーのデザイナーになった」……これらは関ヶ原や西南戦争についての語りが過去への言及であるのと同様に過去について語っている、が、両者はどこかで区別されている。その一線は何なのか?
ヘイドン・ホワイトは、歴史の専門家とされる人びとによって「事実」と認められた過去、すなわち近代実証主義的歴史学によって構築された過去を「ヒストリカル・パスト(歴史的な過去)」、人びとが日常の中で経験として蓄積している過去を「プラクティカル・パスト(実用的な過去)」と呼んだ。【2】
 たとえば先に挙げた教科書の記述などはヒストリカル・パストの一例であるが、ホワイトはそのようなヒストリカル・パストの特権化を強く批判し、プラクティカル・パストの意義を再評価するよう迫っている。
 近代の歴史学は、元来歴史叙述が持っていた豊かな語りの広がりからレトリックや倫理を切除し、「事実」のみを扱おうと努めることで、「科学」という単位へ自らを縫合した――実際のところ、そのような手術を経たところで、「何をいかに語り、何をいかに語らないか」という歴史叙述の営みからイデオロギーを取り除ける瞬間などないにもかかわらず、である。この分離によって「科学」の地位を得たヒストリカル・パストは、同時に国民国家の歴史=ナショナル・ヒストリーを産んだ。プラクティカル・パストは、それが生活世界にもたらしている多大な価値を見逃されるようになった。
 ホワイトの議論は、プラクティカル・パストを公に開いていく試み=パブリック・ヒストリー(公共の歴史)へと連続している。これまで歴史とはみなされてこなかった過去への言及の蓄積、日常世界における過去との対話を通じて、現在を生成していくこと。この新しい歴史の可能性は、この世に生きる全てのアクターを歴史家にする。すなわちヒストリカル・パストはプラクティカル・パストの一種、、となり、アカデミズムの歴史家はそのヘゲモニーを手放すこととなる。
 歴史修正主義的歴史観に対していかに抵抗するかを考えたとき、パブリック・ヒストリーは危うく映るかもしれない。しかしながら、パブリック・ヒストリーは過去と現代の対話であり、そこには過去の時空を現代と同等に尊重する真摯さが求められる。結論ありきで過去を現在に動員する歴史修正主義とは、一線を画すものとして捉えねばならない。また、プラクティカル・パストの一種としてのヒストリカル・パストは、当然このような身勝手な語りを批判する手段として引き続き意義を持つだろう。
 何が「真実」かを競う世界観に踏みとどまる限り、時代の暗闇を抜けることは困難である。過去と現代の対話を通じ、未来の公共を構築するパブリック・ヒストリーこそ、世界に澱む恩讐を解体するために有効な手段であるはずだ。
 少々長い前置きとなったが、この論点を前提として、『進撃の巨人』を読み解いていこう。