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第2回 罠の外を知っているか?――『呪術廻戦』論(2)

アナキスト/フェミニストの高島鈴が、社会現象級の大ヒット作を正座で熟読。マンガと社会を熱く鋭く読み解く、革命のためのポップカルチャー論をお届けします。
第2回は、アニメ化を機に4500万部の大ヒット作となった芥見下々『呪術廻戦』(2018年より連載中/集英社)。連載開始と物語の始まりは同じ2018年。明確に「今」を描く本作において、子どもたちはなぜ戦うのか――。

※本稿は単行本15巻までの内容を含みます。

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●夏油傑と社会の敗北
『呪術廻戦』では社会正義に沿って行動した結果呪術師という労働に耐えきれなくなってしまった人物・夏油傑(げとう・すぐる)と、その同級生にして親友であった五条悟のエピソードが、ごく印象的に挿入されている。
 かつての夏油は「“弱者生存” それがあるべき社会の姿さ」「呪術は非術師を守るためにある」【24】と語り、「強者じゅつしとしての責任【25】」を果たすことを使命と考える、社会正義に忠実な呪術師であった。しかし非術師による醜悪な事件を担当して心身に大きな傷を負ったことや、自身を慕っていた後輩・灰原雄(はいばら・ゆう)の殉職、力を振るう喜びに目覚めた五条との精神的な決別などの要因によって次第に追い詰められ、非術師のために呪術師を続ける意味を見出せなくなってしまう。そして夏油は全ての非術師を殲滅するという目標を掲げ、呪詛師(人の呪殺を請け負う呪術師)として造反するに至るのである。
『呪術廻戦』の世界では、公の理念に身を委ねていればいるほど、目の前のむごい現実によって内心が蹂躙されてゆく。これは社会正義が、もはや現実と擦り合わせようもないファンタジックな理想として扱われているがゆえの落差だ。ここで生じた理念と現実の乖離は、社会正義を「建前」、ぼろぼろになった内心を「本音」へと転化させてしまう。夏油は社会正義と傷ついた内心の間で板挟みになった結果、理念を棄てて後者に従った。『呪術廻戦』は夏油が「悪人」になる過程を、夏油なりの合理性のもとで下された選択として描き出す【26】
 夏油が造反してのち、五条は教職に就く。五条はそれまで「弱い奴等に気を遣うのは疲れるよホント」「呪術ちからに理由とか責任を乗っけんのはさ それこそ弱者がやることだろ」【27】と話し、善悪の判断まで夏油に委ねていた【28】。だが夏油を救えなかった経験を経て、五条は呪術師業界変革の必要性を痛感するとともに「自分だけが強い」状況を深く憂慮し、「弱者」に気遣う「疲れ」を超えて後進の育成を選ぶのだ。古い価値観を打ち破る呪術師の育成による社会変革を目指した五条と、虐殺で社会変革を目指した夏油は、のちに衝突し、最終的に夏油が五条の手で殺害される。
「弱い奴等」を毛嫌いしていた五条の方針転換は全く的外れではない。教育は社会変革の極めて妥当な手段だ。だが五条は全く教育者に向いていないこと【29】、そして教育による社会変革にはおそろしく時間がかかり、人が育つのを待つ間にもたくさんの人が潰れていくことが、『呪術廻戦』では絶望的なまでに強調される。夏油と五条の物語は、それぞれにおいて社会的なものの敗北を示唆すると言えるだろう。
 ただしこれらの描写を指して単純に「自己責任論の推進である」と言えるほど、『呪術廻戦』が描くものは明るくない、、、、、。個人的な「理由」の希求は、自己責任論の肯定ですらなく、自己責任論が大前提になった世の中を生き延びるための最後の足掻きであるように見受けられる。
 前節で示した通り、同作は社会がもはや「人を救う」行為において何かを期待できる仕組みではないとみなしている。それは呪術師が社会構成員を救っても社会は呪術師を助けてはくれないねじれた非対称性の問題でもあり【30】、呪術師が身を削ってまで維持するだけの価値が社会にあるのか、という疑念をも指す。
「一般社会」は呪術師の存在を知らないまま、呪術師が流した血によってその安寧を維持している。夏油が経験したように、社会の「あるべき姿」を目指して呪術師になっても、むごい現実――過酷な任務、非術師の愚劣さ、仲間の死、それらが終わりなく続く先の見えなさ――が、「明るい未来」の可能性を信じる想像力まで潰していく。社会正義に従って内心がずたずたになるのなら、最初から内心だけに従って動くほかない。すなわち呪術師でいる理由を社会から切断し、自己満足の領域で説明しなければ、「人を救う」という苦しい営為にはそもそも身を投じられない、それが『呪術廻戦』の展望する社会像なのだ。逆に言えば同作が「人を救う」主人公の物語であるからこそ、作中の社会の存在は希薄なのである。
 さらに踏み込むなら、呪術師の労働モデルは社会変革と矛盾している。実際、教育で呪術師業界を変えようと志す五条と、呪霊を根絶する「原因療法」を模索し、呪術師のいらない社会の創造を目指す呪術師・九十九由基(つくも・ゆき)は、二人とも「プラプラして【31】」いると評される。実力に応じて呪霊を祓い続ける(=直接的に「人を救う」)以外の行動は、呪術師業界においては「怠慢」なのである。
 どのような事情を抱えて道を「選択」しようと、自らの「意志」に基づくものとして責任を個へ帰属させられ、目の前の仕事をなるべく多く処理することだけを求められ、社会変革のような「非現実的」で時間のかかる挑戦は、成すべきことをしない怠け者の道楽として扱われる……。いわば呪術師の労働モデルそのものが、一つの罠なのだ。一度足を踏み入れ(させられ)てしまえば、もうこの思考パターンからは出られない。問題があると感じていても、それを解決する余裕や想像力は過酷な労働が削り取っていくだろう。
 この感覚に、筆者は強く時代性を見出している。言うまでもなく呪術師たちと非術師社会の入り組んだ階層性はフィクションだが、呪術師という罠の中にいる人々が直面する虚無に近い無力は、今を生きるわれらにとって実に身近な心性ではないか。
 歴史学者の松沢裕作は、努力すれば報われる=報われない者は努力していない、と考える「通俗道徳」思想に、社会不安に襲われた明治期の人々が自ら嵌まり込んでいった過程を、「通俗道徳のわな」と呼んでいる【32】

[…]私たちは一人ひとりが、リアルなわなにかかって動けなくなっているわけではありません。「通俗道徳のわな」は、どこかで悪い人がつくって仕掛けたわなでもありません。不安な人びとが、不安だからこそ、ついついがんばるという選択を積み重ねた結果、自分たちで、自分たちのつくった仕組みにとらわれているのです。【33】

 先ほど呪術師の労働モデルを「罠」と呼んだのも、それが「不安な人びと」による自縛の構造だからだ。通俗道徳の幅広い浸透が起きたのは明治期であるが、人が不安によって身動きの取れない場所に自ら縛り付けられてしまう状況自体は、現実の現在にも、そして『呪術廻戦』の中にも見出せるのである。