1993年の政界再編以降、日本政治の対立軸が不明瞭になり、政治の混迷がいわれて久しい。
冷戦期には東西対立という大きな枠組があり、日本政治もそれを国内化した「保革対立」が対立軸を構築してきた。しかし、冷戦終焉にともない「革新」は衰退し、「保革対立」も相対化されていった。1990年代以降、日本政治は、「保革対立」に代わるポスト冷戦期の対立軸の構築に失敗し、政治の構図は見えにくくなった。現代政治の混迷を解きほぐし、新たな政治対立軸を顕在化させる作業が求められている。
本書の目的は、以下の四点を強調することによって、1990年代以降の日本政治を捉
える枠組(フレームワーク)を提示することである。
第一に、冷戦終焉以降、日本政治の対立軸が五五年体制下における「保守vs革新」から、「革新」の一方的消滅をへて広義の保守政治のみへと変化してきたこと。冷戦期の日本政治における「保守」とは、さしあたり、資本主義体制と日米安保条約を堅持する立場と定義しうる。とすれば、1990年代以降、社会党の方針転換をへて、日本政治の主要勢力はほぼすべて資本主義体制と日米安保条約を受容しており、その意味で冷戦後の日本政治では「われわれすべて保守である」という状況が生まれてきた。
第二に、しかし広義の保守政治の全面化は、水ぶくれした「保守」の内部分岐、すなわち「守旧保守」と「改革保守」への二分化を招き、これが1990年代以降の日本政治の対立軸を形成してきたこと。「守旧保守」と「改革保守」との抗争は、日本における広義の保守政治が、コンセンサス型意思決定によって利益配分や土建国家を担った「守旧保守」から、経済のグローバル化やポスト工業化社会への対応を迫られるなかで、日本の社会経済構造を根本的に転換させようとする「改革保守」へとしたたかに脱皮していく過程であった。
第三に、2012年に誕生した第二次安倍政権は、表向きは「改革」のレトリックを掲げつつも実際には国家介入政策への回帰を示し、アベノミクスは利益配分政治と「新自由主義」との「止揚」(中北浩爾)と位置づけられること。規制緩和、民営化、自由貿易などを牽引してきた「改革保守」は、安倍政権にいたって明らかに曲がり角を迎えたといえる。そしてこれは2016年のアメリカでのトランプ大統領誕生とも重なり、世界的な趨勢となってきた。
そして第四に、「守旧保守」と「改革保守」との対立軸のなかで、それ以外の選択肢は一方的に不可視化されてきたものの、2011年以降の社会運動の再興や「自民党一強」への危機感に触発されながら、分裂散在した野党を糾合しようという動きを通じて、新たな選択肢の再構築がおぼろげながら生じている。このような変化のなかに、「改革の政治」を超えるオルタナティヴの萌芽を可能な限り読みとってみたい。
本書の鍵概念である「守旧保守」と「改革保守」について説明しておきたい。「守旧保守」とは五五年体制下での利益誘導を担った保守政治であり、それは「強力な利益分配志向」(K・カルダー)によって特徴づけられる。すなわち自民党長期政権は、冷戦構造下で財界からの支持を独占するとともに、公共事業や補助金によって地方や農村への手厚い利益配分を行い、また産業規制によって中小企業や零細自営業を保護してきた。カルダーによれば、この利益分配重視の傾向は、保守長期政権がスタートした1949年以後の基調をなしてきたという。
自民党長期政権は、自動車や家電製品など競争力の強い輸出型製造業から農業や建設業などの「低生産性部門」への利益配分を行い、その見返りとして農村や脆弱産業からの支持を得てきた。「守旧保守」による公共事業や開発主義は市場原理を度外視して行われることもあり、また中小企業の保護は市場による産業の自然淘汰を妨げるものであった。それゆえ財界や大企業は、自民党の利益配分政治に必ずしも全面的に同意したわけではなかったが、とはいえ社会党よりましという理由でこれらを追認してきた。
「守旧保守」による利益配分政治は、その政治手法として、利害や要望をくみあげ、調整を繰り返して合意にこぎつけるコンセンサス型意思決定とセットになっていた。五五年体制下の自民党の政策決定は、根まわしや談合を駆使しながら、各段階での「拒否権行使者(veto player)」の同意を取りつけたうえでなされてきた。有力政治家の政権運営もまた、党内融和を重視するスタイルが主流であった。総じて、多様な利害を調整する利益配分政治はコンセンサス型意思決定と親和的であったといえる。
しかし、1990年以降、このような自民党の伝統的な政治手法に対して、意思決定に時間がかかるという不満や、決定責任の所在が不明確であるといった批判が寄せられていく。事実、湾岸戦争での多国籍軍支援をめぐる迷走や不良債権処理の先送り、阪神淡路大震災をめぐる官邸の優柔不断な対応など、日本政治の意思決定の機能不全は繰り返し指弾されてきた。
重要なのは、「守旧保守」のコンセンサス型意思決定に対する批判は「革新」からなされたものではなく、むしろ広義の「保守」内部の論壇を震源地にしていたことである。そのような言論を主導した学者として、佐々木毅がいる。1980年代中頃から政治批評を始めた佐々木は、伝統的左派による「中曽根政権=タカ派軍国主義」といった批判がリアリティを失い始めるなか、左派とは異なる切り口、すなわち「「決めなきゃいけないことを決められない」という、ウエーバー的、マキャベリ的観点から自民党政治の現状を批判」するようになり、山口二郎によれば、これが「すごく説得力を持ち始めた」のである。
1990年代以降、政治家や学者などの政治エリートによって、調整型政治はすなわち「決められない政治」として克服されるべき対象とされていく。そしてそれに対置されたのが、責任を持って決断する強いリーダーシップや「政治主導」という理念、およびそれを可能にする首相権限の強化と内閣機能の拡充など一連の制度改革であった。
「改革保守」は、このような強いリーダーシップへの希求を端緒として登場する。そして、政治に決断と実行力を求める持続的な圧力は、官僚の頭ごしに政権を運営する政治家への支持、首相公選制への世論高揚、さらにはカリスマ的政治家によるポピュリズム政治へと展開していった。
リーダーシップ強化が「改革保守」の手段であったとすれば、その目的は行政機構の縮小再編成であった。「改革保守」は、選挙で示された「民意」に依拠して、政治の決定権を官僚から政治家に取りもどし、官僚主導の開発主義を大胆に解体しようとしてきた。1990年代以降、このような「改革保守」の支配的趨勢のなかでかつての古い保守政治は否定され、調整は「根まわし」と、利益配分は「ばらまき」と、既得権は「しがらみ」と翻訳し直されていった。
このように見ると、1990年前後を境として日本の政治構造は大きな転換を遂げており、そのそれぞれにおいて政治の手段と目的とが表裏一体の関係にあることがわかる。すなわち、地方や農村へ利益配分を行い脆弱産業を保護してきた「守旧保守」は多様な要望を調整するボトムアップでコンセンサス重視の意思決定手法と親和的であった。
他方、利益配分政治の下で保護されてきた「既得権」の縮小再編成を断行する「改革保守」はトップダウンかつリーダーシップ偏重の意思決定方式を必要としたといえる。換言すれば、五五年体制下において構築された日本の社会経済構造を再編成するためには、執拗な抵抗を克服し、政治の不安定化を厭わず、世論や有権者に訴えて「民意」の自己調達を可能にする強い政治的リーダーシップが必要不可欠だったのである。
そのうえで本書では、「改革保守」によってもたらされた、強いリーダーシップによって行政機構の縮減再編成を断行する政治を「改革の政治」と名づけたい。「改革の政治」は、ポスト冷戦期の日本政治にもたらされた統治性であり、本書が1990年代以降の日本政治を捉える際の定点観測の基準である。