ちくまプリマー新書

人はなぜ服従しがちなのか…「慣れてるから」「安心するから」「責任回避」
『従順さのどこがいけないのか』より本文を一部公開

「みんなそうしているよ」「まわりに合わせないと!」「ルールだからしかたがない」「先生がいってるんだから」――こうした発想が危険なのはなぜでしょうか? 好評発売中の『従順さのどこがいけないのか』(ちくまプリマー新書)では政治、思想、歴史からその理由を徹底解明。人が「服従」してしまう理由に迫る本書の第一章より、本文を一部公開します。

安心するための服従

 ミルグラムの実験は、普通の人々が権威にいともたやすく服従する傾向があることを示したわけですが、そもそも、私たちが権威に服従しがちであって、むしろ服従しないことの方が難しいと感じるのはなぜなのでしょうか?

 それは、ある権威や権力に服従する限り、自分が安心できるからです。自分が信頼し、場合によっては崇拝している権威が決めることに従っていれば、自分は間違いを犯すはずがないと信じられるからです。

 その上、その権威に従うのが自分だけでなく、他にも多くの人々が服従しているなら、なおさら安心感は増します。

 この点、あなたにも心当たりがないでしょうか。

 なんとなく、多数派の意見に寄り添っていれば安心だ、と思いませんか。

 たとえば、日本政治の現状には満足がいかないが、変化による混乱は避けたい。つまり、安定感に浸っていたいので、現状維持のために多数派に同調していませんか。

 さらには、現状を批判し、不服従を呼びかけるような少数者は、既存秩序をみだすのでハタ迷惑だ、と思っていませんか。

 あるいは、自分には異論があるのだけれど、他人から迷惑がられるのが嫌で、多数派に追従していませんか。

 朝日新聞が二〇二〇年七月に行った世論調査によれば、当時の安倍晋三政権に対する支持率は、支持が三三%、不支持が五〇%だったそうですが、二九歳以下の若い人々の間では、支持四六%、不支持二九%と、支持が不支持を上回ったといいます。

 一応、民主的に選出された以上、現実に政権の座にある限り、権威を持った存在に見えてしまうかもしれません。

 その結果、政権側に寄り添い、批判勢力には「空気が読めない」不愉快な人々だという印象を抱いていませんか。

 多数派に同調している限り安心だ、ということは、逆に言えば、服従しないことには勇気が必要だということです。多数派を権威とみなす限り、これに服従しないと安心できないからです。

 一八世紀ドイツの哲学者カントが「啓蒙とは何か」を論じた際、掲げたモットーは「知る勇気を持て(Sapere aude)」でした。

 ヨーロッパの知的世界で巨大な権威を教会が有していた時代では、教会が権威をもって教えることに従うことが当然視されていました。これに対し、カントは、教会権威が教えるところに従うのではなく、自分の理性を頼りに自分で考え判断せよ、と主張しました。

 権威に頼らず自分の頭で判断することには不安が伴います。だからこそ、「知る勇気を持て」と読者に呼び掛けたのです。

 ミルグラムの実験で、実験を行う心理学者は「権威」として立ち現れています。服従の問題は、権威への態度の問題でもあるわけです。

 その権威が、何かとんでもなく偉大だと思われている存在だとどうなるでしょうか。そんな崇高な権威には、いとも簡単に従順になってしまうものではないでしょうか。カトリック教会の教皇に対して信者は恭順な態度を取るものですし、日本でも天皇をはじめとする皇族の面前では「畏れ多い」などと言って、へりくだるものではないでしょうか。

 多数派の支持を受けている存在や、崇高だと思われている人々には「権威」の後光がさしています。これに服従することで人は安心感を得るので、服従しないことにはかなりの勇気が必要となるのです。

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