紙子と学校

都心の一等地にあり、帝に仕えるための特殊技芸者を養成する中高一貫の女子校・玉笛女子学園。中等部に入学し寮で同室となった紙子と陽子は、不思議な先輩や先生たちとの交流を通じて成長していく。気鋭の詩人による和風学園ファンタジー、ここに開幕!(カット:鯨庭)

 夜空に浮かぶ星々は、美津子にとっては机上の星図も同然だった。
 
 まるで黒子(ほくろ)のように、素知らぬ顔で星に紛れていた白飛童子は、玉櫛寮のバルコニーから星の動きを観察していた美津子に捕らえられ、今や小さな虫籠の中に囚われていた。
 虫と違って、白飛童子は飯も食わなければ鳴きもしない。ただ、時折試すように跳ね上がり籠に体をぶつける。
 美津子は虫籠に顔を近づける。赤ん坊のこぶしほどの大きさの顔に、「人為」特有の目鼻立ちがある。
「人為」とは、人の形に姿を変える自然物の病である。世間一般では「物の怪」や「妖怪」と呼ぶ方が伝わりやすい。「人為」に感冒した自然物は不作の兆候とされ、宮中の人間は人為を捕らえることに躍起になっている。
 国内の食品廃棄量や自給率を考えると、豊作への祈りはもはや形式的に過ぎないとも思えるが、この国の文化では、収穫量はそのまま国の吉凶に直結しているために、帝への不信を招きやすい。だからこそ狩るのだ。
 眉より高く切り揃えられた白飛童子の前髪を見て、美津子は虫籠を小突いた。
「お前は誰に髪を切ってもらったんだ」
 暗に母親がいるのかという問いに、白飛童子は答えない。
 それでも幼い白飛童子の顔色が曇った気がして、美津子は虫籠を机の上に置いた。たとえ人為であったとしても、幼い姿のものをからかうのは快いものではなかった。彼の前髪を切り揃えたのは母の手ではなく、単に人為の病の影響に過ぎないのだろう。
腕組みをして、冷たい白壁に頭を預けた。
(まだ宮中に入っていないのに、わざわざ白飛童子を籠に入れておくなんて。結局、私は母さんの仕事を継ぐつもりなのか)
 先日遊戯室にあるテレビで、「親ガチャ」という言葉が同世代の間で流行しているという特集を見た。玉笛の生徒の場合、「親ガチャ」というより「家ガチャ」だと美津子は心の中で呟いた。母親のことは好きだが、家の仕事を心から継ぎたいとは思えずにいる。家の仕事を継ぎたくないのに玉笛にいるという違和感が、最近眠りを妨げるようになった。
 部屋の窓から構内を見下ろす。増改築が繰り返され、四年生になった美津子でさえ用途の分からない校舎が見える。鎮守の森が、新月の夜に爛々と輝く星の光に照らし出され闇が深まった。
 ぽつぽつと、提灯のように白色灯が点いている場所がある。そこは玉笛構内に設けられた商店街で、昭和の戦火を免れた木造建築が立ち並ぶ。とっくに廃番になった商品の看板を貼り付けたままにしているような店ばかりで、まるで老人たちの記憶の形を意図的に残しているかのようだ。鄙びた温泉街を思わせる雰囲気がある。昭和レトロ、とでも言うつもりだろうか。

 その時、商店街を通り抜ける一人の少女の姿が電灯に照らし出された。時計の針は、すでに深夜一時を過ぎている。
(こんな夜遅くに下級生が一人歩きか)
 少女を目で追っていると、彼女の後を滑るようにつけて歩く黒髪の男が目に入った。
考える前に、美津子の身体は部屋を飛び出していた。
「白麒」
 美津子が指を鳴らすと、長い指先から白い雲に似た渦が巻いた。水のように冷たい風とともに、「白麒」と名付けられた瑞獣が大蛇に似た胴体をくねらせながら現れ出る。
電気を帯びたように宙に漂う髭を手繰り寄せて背中にまたがると、商店街へと瑞獣を走らせた。

 *

 紙子は後ろを振り返った。
 いつまでも後をついてくるように思われた都会のざわめきが、気がつくと鎮守の森の葉擦れの音に変わっていた。
 都内でも、三月の深夜には気温は十度を下回る。
 濃紺のオーバーコートに身を包みながらも、立ち止まると凍えてしまう。寒さだけではなく、新しい生活への期待と不安から身体は少し震えているように感じた。
 それにしても、玉笛女子の構内は一つの街のようでもある。正門をくぐる前まで、耳鳴りのようについてきた都会の喧騒、車が走る音はもう耳を澄ましても聞こえてこない。
(植物が眠るにおいがする)
 都会の真ん中で、こんな自然のにおいを嗅ぐことになるとは思わなかった。あらゆる道がコンクリートで固められ、各国の気鋭のデザイナーたちが趣向を凝らしたビルディングが立ち並ぶ東京に、生々しい土が残されていることが信じられない。革靴が夜露に濡れた木の枝を踏んだ。
 鎮守の森を抜けると、護岸工事の施されていない小川に行き着いた。「縁切橋」と彫られた小さな石が橋の袂にある。
 三歩ほどで渡りきる短い石橋を、一歩ずつ丁寧に渡った。

 坂道が続いた後、目の前に石段が現れた。駆け上がると、固くシャッターを下ろした商店街が目の前に広がった。
 パン屋に喫茶店、文具店に書店まである。これなら、玉笛から一歩も出ずとも身の回りの生活用品ならなんでも揃うだろう。
 正門をくぐってから初めて電灯の光を見て、ホッとため息が出た。コードで等間隔に吊るされた電球は、どこか縁日の提灯じみている。
 紙子は電灯の下で、構内地図を開いた。正門を入ってからすでに三十分以上は優に歩いているはずだが、一向に校舎らしきものは見えない。知らず知らずのうちに、道に迷っているのかもしれない。
 足下に伸びている歩道をこのまま真っ直ぐに進んで行けば、玉櫛寮に辿り着くはずだと思う。
「……いや、辿り着かない……かなあ」
 紙子は地図をぐるぐると回して方向を確認した。

 その時だった。

 背後から衝撃音とともに、紙子のボストンバックが宙高く浮いた。
 一瞬、車に衝突されたのかと思った。しかし目に飛び込んできたのは、蚕に似た鈍く白い輝きを放つ怪物が、紙子の荷物を抱え付き従っていた紙人形を一撃の元に引き倒す光景だった。
 入学案内に「ローラータイプのスーツケース禁止」の文言があったために、父が荷物運び役として一枚よこしてくれた紙人形だった。先ほどまで、雛壇飾りの「右大臣」に似た顔で涼しげに後ろを歩いていた男が、怪物に紋様を破られ、小さな紙片となって地面に落ちた。
 ボストンバックは紙子の頭上に落ち、勢い余って石畳の上に倒れ込んでしまった。
 身構える前に、遥か上から柔らかな声が聞こえてきた。
「無事?」
 顔を上げると、ロングカーディガンを羽織ったセミロングの女性と目があった。
 怪物の頭越しに。

 

 彼女が跨る怪物は、蚕と蛇を混ぜたものを消防車くらい大きくしたような見た目をしながら、今やおとなしい北海道犬のようににこにこと地面におすわりをしていた。
 紙子はしばらくぼんやりと美津子を見ていた。美津子も、それに応答するように紙子の様子を眺めていた。
「頭を打ったかな。保健室、連れて行こうか」
「へ、上級生の方ですか」
 入寮初日に上級生にどつかれた衝撃から、紙子はなぜか石畳の上に正座してしまった。
 美津子は手を振った。
「違うよ。驚かせてごめん。君、変な男に追いかけられていただろう」
(変な男?)
 まさか、と視線が地に落ちた紙片へと走る。
「そ、それは」
 紙子は真二つに裂かれ黒ずんでしまった紙切れを指さした。
「この紙人形のことでしょうか」
 美津子が眉を顰めた。
「式神を男体化させていたってこと?」
「し、式神だなんて、そんな大層なものではなくて。うちのはただの、紙細工で」
「紙細工? そんな仕事があるんだ。初めて聞いたよ」
 美津子は、無惨に引き裂かれた紙切れを眺めてから、深いため息をついた。
「てっきり、イカれた野郎かと思って。教員の服装でもなかったし、こんな時間だったから。構内で、私服の男性ってあまり見ないんだよね。勘違いして本当にごめん。直せたりするの?」
「不用意に部外者を連れてきた私が悪いんです。荷物持ちで父が付けてくれて。こんな時間に来たのも、父の指示なんです」
 それに私はまだ紙を動かせなくて、と紙子は付け加えた。
「お父様が?」
 しばらく考えて、美津子はやっと合点がいった。
「あ、『玉依姫』か」
「たまよりひめ?」
「うちでは、一年生のことをそう呼ぶんだよ。玉笛に身を寄せる姫君ってことでね。そうか、明後日は入学式か。すっかり忘れていた」
 自分が五年生になることも忘れていた。
 美津子は白麒の背から滑り降りて、紙子に手を差し伸べた。冷えた石畳に正座していたため足が痺れよろめいた紙子を支え、美津子は微笑んだ。
「内侍、技師……父親が今の仕事をしているってことは、祭祀ではないね。祭祀権は女が継ぐものだから」
 美津子の言葉を、紙子はただただ黙って聞いていた。逡巡していたのではなく、言っている意味がよく分からなかったから黙っていたのだ。
「玉笛へようこそ。寮まで送るよ」
 美津子は白麒に手をかけて、紙子に「乗る?」と声をかけたが、紙子が断固拒否したため、歩いて行くことにした。右手の指をくるくる回すと、白麒は糸車で巻かれるように少しずつ小さくなり、そのまま消えていなくなってしまった。
 美津子は地面に落ちたボストンバッグを軽々と持ち上げた。慌てて紙子がそのボストンバッグを手に持とうとしたが、その手を押しのけてずんずん前を歩いていってしまう。
「あの、先輩」
「美津子。さん付けでいいよ」
「み、美津子さん、あとどれくらいで玉櫛寮に着きますか?」
「あと一時間もかからないくらい。すぐだよ」
 玉笛女子入学の洗礼を受け、紙子は目眩がする思いだった。

(つづく)
 

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