紙子と学校

都心の一等地にあり、帝に仕えるための特殊技芸者を養成する中高一貫の女子校・玉笛女子学園。中等部に入学し寮で同室となった紙子と陽子は、不思議な先輩や先生たちとの交流を通じて成長していく。気鋭の詩人による和風学園ファンタジー、ここに開幕!(カット:鯨庭)

 止むことのない 地鳴り
 底から湧き上がるもの

 *

 須城学園構内にある急峻な坂道を、息を切らしながら上っていく。
天から降りそそぐ雨が、身に張り詰めた緊張を徐々に消耗させていく。
 ようやく、雨宿りできる枝の広い木を見つけた。
 平坦な土地を踏む安堵感は何物にも変え難い。朱彦(あけひこ)は、表面についた雨水を払おうとして、学帽を地面に落とした。拾い上げようとした時、坂道に生い茂る木々の隙間から、雨にけぶる烏山と八瀬童子が護る屋敷が見えた。
 単なる通り雨だろうと呑気に構えていたが、濡れて冷えた身体は固く重くなっていた。瑠璃色の学生服を包んでいたレインコートをばさりとふるう。細かな水滴は大きな玉になって土に落ちていった。
 少し遅れて、濡れた草を踏み分ける音が聞こえてくる。
 朱彦は、向こうからやってくる相手に向かって手を上げた。
「繭彦。ここで雨を避けるぞ」
繭彦は古風な網代笠をかぶり、着物の上に着るような裾の長い黒衣を羽織っている。黒衣の裾からは水が滴っている。
「休憩?」
「雨で消耗するのは馬鹿馬鹿しい」
「本当。一番の馬鹿は窟穴(クチナ)彦だけど」
 行動を共にしていた窟穴彦とはぐれてから、丸一日が経とうとしていた。
「烏山を越えて、玉笛の方まで行っちゃったんじゃないの」
 深くため息をついた繭彦は笠を頭から下ろし、雨水を振るう。繭彦は托鉢僧のような格好をしているが髪は長く、色素の薄い髪は陽に照らされると茶色くなる。親や顧問からは一日も早く剃髪しろと言われ続けているが、逃れ続けている。まるで洗髪でもするように、髪に指を通しながら汗を乾かしている。
「僕と朱彦でこれだけ探しても見つからない。窟穴彦の足で行けるのは、あと烏山と玉笛くらいでしょ。いっそ、玉笛まで行って大騒ぎになっていると面白いんだけど」
「玉笛は最悪のパターンだな。そしたら、俺は本気であいつを見捨てる」
「『三人組』の単位が絡んでなければ、普通に見捨てるんだけど」

 

「三人組」は、寄宿舎で同室の三人で一チームを組み、大山の頂にある拝陽殿に参詣した後、寄宿舎に揃って戻るという至って単純な訓練だ。
 大山は「山」と名がつくものの、地質学的には大山は山ではなく、台地の分類になる。いわゆる三角点が設置されていない。烏山は天然の山だが標高二十五メートルほどの低山で、標高五十メートルある大山台地の方が高い。
 三人組の訓練には注釈がある。いわゆる登山道具を使わず、普段の装備で臨む。朱彦と繭彦も、須城学園の構内で普段の生活している時の姿と何も変わらない。須城学園六年生の伝統行事の一つで、結果は宮中の人事部に共有され卒業後の配置に影響があるとされている。
 去年、三人組での経路途中で人為に襲撃され仲間を失って戻った学生は、室町時代からの名門の出であるにも関わらず、卒業後に下賜された身分は「下人」で、河岸門の警護中に最近亡くなったという噂を聞いている。祭祀権を持たない人間は、宮中では閥に入ることが基本で、下賜される身分が今後の「生きやすさ」を決めると言っても過言ではない。祭祀権は基本的に女性が継承するもので、須城学園の学生のほとんどは祭祀権を持たない。朱彦、繭彦、窟穴彦ともに祭祀権などなく、卒業後の安泰な生活のためには、三人組の修練は必ず達成しなければならない。

「大体、いくら人為の群れに遭遇したって、包囲して全滅させる必要はなかった。僕は初めから群れを切り抜けられるだけの人為を倒す頭だったのに、窟穴彦が崖下まで走って行くからさ」
「窟穴彦は体力馬鹿だからな」
「自分一人で後ろから倒してくれるのかと思って上から見ていたのに、群れの列が切れても窟穴彦が現れなかった時は、本当に木から落ちそうになった」
「人為に食われたような跡もないし、あいつ本当に何をしに行ったんだ」
「窟穴彦が下りた方向を考えると、烏山か玉笛……大山にいないとなると、さてどちらにいるかな」
 眼前に聳える烏山と、その奥側の平野部に見える玉笛。
 台地に立地する須城学園に対して、玉笛女子学園は平地に広がっている。その地理的特性は羨ましいと朱彦は思う。玉笛の女学生たちは、気を抜いた途端に滑落するということがないに違いない。
 朱彦が繭彦の足下に目を向けると、黒い土に文字が浮かび上がっていた。
 雨のそぼ降る昼下がりに、その文字は白く光って見えた。

 盆

「盆」
 朱彦が読み上げた。
「窟穴彦、死んだのか」
 繭彦は耳を澄ますように、土面に浮かび上がった文字を眺めている。
 繭彦の一族は、問いの答えが土面に浮かび上がることがある。それは、土中に入り即身仏となった先祖の声なのだとも言われている。
 経典につづられているような力強い筆文字ではなく、それは透明な光のような、花弁に似せた紙縒りのような、細くたよりない文字面である。
「死んでない。朱彦、どこから見ればこれがそう読めるの?」
「盆といえば盂蘭盆だろ。お盆の時期に帰ってくるっていう意味じゃないの」
 突拍子もない朱彦の言葉から、きゅうりに割り箸を刺して作った馬にまたがる窟穴彦の姿が頭に浮かび思わず吹き出した。
「あはは、最高」
 繭彦を笑わそうという意図は全くなかった朱彦は、腹を抱えて笑い出した繭彦の声に面食らった。
「『いつ』帰るかじゃなくて、『どこ』にいるかを考えていた。文字解きは僕も得意じゃないけど。少なくとも烏山、という意味ではない」
「玉笛か」
 盆の上は平らかだ。繭彦は頷いた。
「最悪の予想が当たった。窟穴彦は見捨てる」
「朱彦、その割には嬉しそうだけど」
「なんでそう見えるんだよ」
「玉笛に行くのが嬉しくない男なんていないよ。そんなに反応するとは思わなかった」
「隣の芝は青い」
 言葉面の通り、玉笛校舎はじんわりと白く浮かびあがり、構内の芝の青さを際立たせている。紅白の躑躅(ツツジ)の花も、まるで枯れることを知らぬかのような見事さだ。優美な玉笛構内の様子を見ていると、校舎内の女学生たちも花のように笑って過ごしているように思えてくる。
「玉笛。綺麗なお姫様がたくさんいるんだろうな。どうせ行く末は同じ宮中に勤めるなら、須城じゃなくて玉笛に入りたかった」
「まあ、間違いなく須城よりは良い環境だろうな」
「玉笛に妹がいたら毎日遊びに行くのに。朱彦の妹、玉笛にいるんじゃないの?」
「知らない。かなり昔に別れたきりだ」
「朱彦の顔そっくりの女の子が玉笛にいたらかなり面白いな」
「なんでだよ。可愛いだろ」
 二人で笑い合った時、朱彦も繭彦も窟穴彦のことはすっかり頭から抜けていた。
 
 窟穴彦は玉笛構内に降り立ち、辺りを見渡していた。
 短く刈り上げた黒髪は、鎮守の森では青く輝く。
 大山から滑落した際、雨合羽を上に羽織っていなければ、皮膚が大きく剥がれていたに違いないと思う。今は瑠璃色の学生服を肩に羽織っている。
 鎮守の森を小一時間ほど進むと、「縁切り橋」と彫られた小さな碑と、石橋が目の前に現れた。
 橋の名の意図を汲み取るために屈んだとき、ベルトから提げた刀の先が砂に擦れて、小さく甲高い音をたてた。

 *

「紙子。宮内便来てる」
 陽子が薄灰色の長三封筒をひらひらと掲げる。
 学校から玉櫛寮に帰ったばかりで、二人はまだ制服から着替えていない。
「ええと、差出人は」
「待って」
 頭ひとつ背の高い陽子の手から、紙子は跳び上がって封筒を取り上げた。
「なになに。誰からなの?」
「いや、ごめん。なんでもない。たぶん先輩から」
「えー! なに! 紙子、いつの間に!」
「ちがうよ、玉笛の先輩」
「ふうん。つまり、『大姫乙姫』の関係ってことね」
「なにそれ」
「『大姫』はお姉さま、『乙姫』は妹。いわゆる姉妹(スール)制度の玉笛版よ。その先輩は、紙子の大姫なんでしょ」
 確かに美津子を姉のように親しく思っているが、美津子が紙子を妹のように思っているかは分からない。
「そんな大そうな関係じゃないよ」
「わざわざ否定するなんて。いいなあ、紙子」
陽子に背を向けてから、宛先票を見てみると、そこには美津子ではなく、見慣れぬ名前がボールペンで走り書きしてあった。

 鳴賢

「ナルケン……? 陽子、これなんて読むと思う?」
陽子は待ってましたとばかりにひょいと覗き込んで、眉に皺を寄せてうなり始めた。
「ナルケン」
「だよね。私も、ナルケン、だと思う」
「このナルケンさんが、紙子の大姫?」
「ちがう。先輩からじゃない。全然知らない人」
セロテープで止めた封筒は簡単に開いた。
     
――紙子さん。あなたの顧問を任された鳴賢と申します。
  鳴賢は「めいけん」と読みます。
  十三日授業が終わったら、
  この手紙を持って二十号館の前に立っていてください。
  お会いしたらすぐに分かると思います。
  何しろ、毛が逆立(さかだ)っています。

「鳴賢(めいけん)、だって」
 紙子は手紙を覗き見していた陽子を振り返った。
「いや、もう名前の読み方はどうでもいい。『毛が逆立ってる』が強すぎて」
「毛が逆立ってるって、針鼠(はりねずみ)みたいな感じ?」
「知らんわ。私に聞くな」
 陽子は紙子の頭に軽く手刀をくらわせた。
 それでも、紙子は口元を綻ばせていた。
「職能、いよいよ始まるのかあ。頑張ろう」
「へえ、頑張るんだ」
「なんで?」
「宮中の外で夢があったみたいなこと、前に言ってたからさ。科学者だっけ」
「うん。科学の力で、人や動物たちの治療をする仕事に興味があったの。でも紙師は、代々家で継いできた仕事だから。早く紙師として、一人前になりたいとは思ってるよ」
「早く一人前になって、国の役に立ちたい?」
「国の役に立ちたいっていうか。誰かの役に立ちたい。親も、それを望んでるだろうし」
「紙子にずっと聞きたかったんだけど」
「なに?」
「紙師になって、もし人を殺す役割を任されたら、紙子は殺すよね?」
 陽子の瞳に影がさした気がして、紙子は一瞬言葉に詰まった。
 いつもの冗談なのか、表情から汲み取ることができない。
「人を殺すなんて、嫌だ」
 紙子の回答を聞いて、陽子は頷きもしない。
「誰かに命令されて、人の命を奪うなんて」
 自分の言葉が、玉笛で暮らす学生として矛盾を孕んでいることには気づいている。玉笛を卒業して宮中に入れば、自分の意志よりも帝や閥の意思が優先されるのだ。それでも、そんな自分の姿を想像することができない。
 動揺したくないと紙子は思う。父は、宮中行事や祭祀に使う紙細工しか作っていなかったはずだ。紙師の手に従順な、命なき動物たち。命と意思を持たない紙細工が紙師の想定したシステムによって動き壊れていくように、自分自身も紙師というレールにさえ乗っていれば、陽子の問う過酷な作業に行き着くことはないはずだ。宮中に入り、自分の意思を殺して生きることになったとしても。
「なんかさ、ふと思ったんだよね」
 陽子は紙子の前に直立していた。紙子が普段安心して頼れる陽子の大柄な身体は、今は不器用に頼りなく見えるのが不思議だった。
「自分の将来を自分の意思で決めることができないままに玉笛に入ったけど、それは玉笛を卒業して宮中に入ったら、自分の意思とは無関係に生き続けることだって。私の生き方が、私のものでなくなる。それって、私自身が死ぬことと一緒なんじゃないかって。さっきのは極端な話だけど。殺せと言われたら、自分自身に選択の余地はないんだよね」
「陽子。悩んでるの?」
「そんなことないよ。ただ、勘違いに気づいた話」
 勘違い、の言葉が、陽子の口元で寂しく響いた気がした。
「人を殺さない、っていう意志の選択ができないなら、人を殺すほど技量が及ばない、っていう日常を選択し続けることは可能なのかな」
「そんなやつは、早々に烏山行きだね」
 いつの間にか、目の前の陽子はいつもの溌剌とした表情に戻っていた。
「私はね、万が一紙子に命を狙われることになっても、紙細工をハサミで切っちゃうからね」
 二本指を立てて、チョキチョキ、と動かした。
(もしそんな状況になったら、本当にそうしてほしい)
 言葉を飲み込んで、ファイティングポーズをとって笑い合った。

 約束の日。
 鳴賢先生に指定された通り、紙子は二十号館の前に立って待っていた。
授業が終わったのが、午後四時。遠くに見える時計台の針をみると、間もなく午後五時になろうとしている。約束の時間から、一時間近く経っている。
 手紙を鞄から取り出して読み直した。
「十三日。授業が終わったら。二十号館の前。あってる」
 戦前、生徒に武稽古をつける意図で建てられた二十号館は、現在使用している様子は見られない。重たげな鉄扉の取手は鎖付きの錠で何重にも巻かれ、鍵穴は錆が膨らみ塞がっている。
 この不気味な建物の前を、鳴賢先生と思わしき人はおろか、誰も通らない。
 烏山に向かう、黒い鳥の群れが夕暮れの空を切っていく。
 赤い夕暮れに、夜の色が満ちていくのを肌に感じて、思わず身震いした。
 徐々に二十号館の窓の奥の暗さが胸の奥を冷やしていく。
 この鉄扉の向こう側にいる存在が、自分に手紙を送ったのではないかという空想が広がり落ち着かなくなる。もう、いても立ってもいられなくなってきた。
 紙子は半分泣きながら、手紙に向かって呼びかけた。
「鳴賢先生」

「よくぞ見つけてくれました」

 紙子は目を見開いた。
 優しげな男の声は確かに、紙子が握りしめた手紙から鳴り響いていた。
 目を離せずにいると、まるで泡(あぶく)が水面に浮かび上がってくるかのように、微笑む顔が徐々に紙面いっぱいに広がっていく。紙子が手紙を落とすと、紙と地の境目にある縁を掴んで、紫紺の長衣に身を包んだ男が手紙の中から現れ出た。その時軽く咳払いをしたが、地鳴りのように低い声だった。
「紙の生徒を受け持つということで、紙でのご挨拶。鳴賢と申します」
 鳴賢先生は肌が真白く、言うなれば能の女面に似た顔つき。
 黒い髪は、背中には垂れずに縮れて上に伸び上がっていた。きっと雨が降っても、鳴賢先生の顔にはかからないだろう。髪の毛はハリネズミというより、傘のように頭の上に広がっている。
 鳴賢先生は癖毛とは言わずに、自分の髪を「逆髪(さかがみ)」と名付けて説明した。「逆髪(さかがみ)」というか、「傘髪(かさがみ)」だと紙子は思った。
「随分時間がかかったので、紙子さんと私の根比べみたいになりましたね」
「あの、鳴賢先生。会えばすぐ分かると手紙にはありましたが、紙の中にいたら分からないと思うのですが」
「『紙の子』なんだから、紙がいつもより少し重いことくらいお気づきなさい」
 太い弦を弾くような声に、紙子の背筋はぴんと伸びた。それでも、煉瓦色の瞳は優しい。鳴賢先生の青みがかった化粧の色合いによく合っている。
 日は沈んで、辺りは闇に包まれていた。
 鳴賢先生と共にいると、二十号館も怖くないことに気づいた。

(つづく)

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