家の事情で、幼少期をイギリスで過ごしたという男と同じ組になり、山に入ったことがあった。
山の隊列は、ふつう格上の者が後方を歩く。それが山歩きが進むにつれて、この隊列が崩れていく。家柄も学内での順位も関係なく、山歩きに適した順に、自然と隊列が組み直されていく。彼はいかにも文官の家柄らしい、中性的な体つきをしていた。家の格でいうと、窟穴彦(クチナヒコ)の方が上だった。はじめ窟穴彦は後方にまわり、彼を前方へ行かせた。それが、道らしい道が草や残雪の影に隠れていると、立ちすくむように列を止めてしまう。体も小さいので、後ろを歩いていても、結局枝や蜘蛛の巣を窟穴彦が受け止めることになる。しばらくすると、暗黙のうちに、窟穴彦が前方を歩き、彼は後方を歩いていた。
まだ冬が明けたばかりの頃は、山深くに進むにつれて、白い霧が立ちこめる。父はこれを単なる水蒸気ではなく、冬に閉山となっている間に育った「山の気」だと言い尊んでいた。「山の気」は、山を歩く者の額と洋服を徐々に濡らしていく。昔の人らしい、迷信深い物言いだと、窟穴彦は思う。それでも、この水気を全身に浴びているうちに、まるでゾーンに入るように、山歩きに没頭してしまう。煩雑な思念が取り払われ、山を登るという行為に、体も心も集中するのは、清々しい。山の水と、自分の体から流れる水が交わる。
(山に棲む獣らは、こんなに清らかな気持ちで生きているのだろうか)
そのうちに、後ろを歩いていたはずの彼の姿が見えなくなっていることに気がついた。
来た道を戻ると、彼は苔むした巨岩に背をもたれ、両手で頭を抱えたままじっとしていた。
「おい。気分が悪いのか」
彼は何も答えない。
「休むにしても、岩を背にすると体温を奪われる。別の場所に移動するぞ」
華奢な腕を引っ張りあげると、顔色がかなり悪いことがわかった。足に力が入らないようで、背負うこともできない。白くなった口を動かして、何かを伝えようとしている。
口元に耳を近づけると、かすれた声が聞こえた。
「山がうるさい。耳元で騒いでいるみたいに。なにも考えられなくなる」
暗く湿った山に入った不安感から、頓珍漢な弱音を吐いているのかと思った。しかし、彼は本当に青ざめ、頭痛に耐えていた。
ヨーロッパの山や森は、葉擦れの音、川の音、鳥と蛙の声しかないらしい。この場所に比べれば、ほぼ無音に近い環境なのだという。絵本に印刷された森の絵のような、そんな殺風景な自然が存在するのだろうかと、窟穴彦は首を傾げた。
窟穴彦が知る山とは、木々が生えている場所というよりは、命を内包する卵のような場所なのだ。校舎に入れば、人の声、靴音、衣擦れ、物を落とす音といった生活音が鳴っているのと同じように、山に入れば、木の幹が水を吸い上げ震える音、虫が腹をこすりながら地を這う音がする。学生のいない校舎は校舎でないように、無音の山があれば、それは山ではない。自然ですらない。
(俺は本当に、知っている場所のことしか、知らない)
海外の土地と比較することができる彼を、窟穴彦は眩しく見下ろしていた。
(しかし俺も、本当は無音の森を見たことがあるはずなのだ)
都心の一等地にあり、帝に仕えるための特殊技芸者を養成する中高一貫の女子校・玉笛女子学園。中等部に入学し寮で同室となった紙子と陽子は、不思議な先輩や先生たちとの交流を通じて成長していく。気鋭の詩人による和風学園ファンタジー、ここに開幕!(カット:鯨庭)