ちくまプリマー新書

イノベーションが都市で起きるわけ
『大都市はどうやってできるのか』より本文を一部公開!

東京やNYのような大都市が生まれる一方で、地方は過疎の一途をたどっています。コロナ禍でのテレワークの普及により地方移住が加速するという意見もありますが、そもそもなぜ都市に人と情報が集まっているのでしょうか。都市ができる原理から現代の課題まで、都市経済学から考える1冊『大都市はどうやってできるのか』より本文の一部を公開します。

情報通信技術の発達がもたらすもの

  2020年からのコロナ禍で、日本の企業でもリモートワークやテレワークが普及したと言われています。リモートワークが普及し、東京をはじめとした大都市から地方への移住が進むだろうとの意見も聞かれます。また、テレワークの普及により、大都市中心部から郊外への移住が進んでいくだろうとの声もあります。実際に、人材派遣会社大手のパソナグループは、2020年秋に本社機能の一部を東京都から、兵庫県の淡路島に移すことを発表しました。

 こういった意見の背景には、1990年代以降のインターネットのようなICT(In-formation and Communication Technology:情報通信技術)の普及、および最近のZoom のようなオンライン会議ツールの発展があります。インターネットの発展、普及とそれに伴う電子メールの普及は、人々の情報のやり取りの方法を一変させました。

  インターネットの発展、普及によって、人々はテレビや新聞などのマスコミを通さなくても多くの情報を集めることができるようになりました。また、電子メールの普及により、遠隔地に住む人とのやり取りに手紙を出す必要がなくなりました。筆者が大学院に入学した1990年代後半、論文に関する意見のやり取りは手紙で行われていました。アメリカの研究者との議論には数か月単位の時間をかけていたのですが、電子メールが普及し始めると、手紙のやり取りはあっという間に駆逐されました。2000年代前半には全てのやり取りが電子メールでなされるようになり、議論のスピードは格段に上がりました。また、電子メールは電話の役割も部分的には代替しています。直接話さなくても伝わる、もしくは直接話す必要がないような内容の情報の伝達は、電子メールで行われることが増えました。

  Zoomのようなオンライン会議の技術の発展は、人々が直接会わなくても意見のやり取りを行うことを可能にしました。実際、筆者の職場である大学でも全員が集まって行う会議の機会は減りました。紙媒体で提出されてきた資料やレポートも電子メール等の電子媒体でやり取りされるようになってきました。コロナ禍の下、オンライン講義が導入され、自宅で講義を行うようになりましたし、学生も自宅から講義に参加するようになりました。つまり、ICTの発展がリモートワークを可能にし、結果として大学外で業務を行う機会が増えたのです。このような動きは大学だけではなく、さまざまな業種で進んでいることでしょう。その結果、多くの業種で人々が直接会わず、職場でなくとも可能な業務が増えたであろうことは容易に想像がつきます。

 ICTの発達によって人々は職場に出勤する必要がなくなるのでしょうか。大学の授業はオンライン化が進み、教師や学生は教室に行く必要がなくなるのでしょうか。この疑問に答えるためには、人々が職場に集まると何が起こるのか、教室で授業が行われると何が起こるのかを理解しなくてはなりません。また、ICTの発達によって、多くの職場が集まる大都市は解体され、人々は郊外や地方に移住するようになるのでしょうか。この疑問に答えるためには、大都市に多くの企業が集まる、さらにそこに人々が集まる理由を理解しなくてはなりません。この章では、ICTの発達と、それが都市の未来に与える影響について考えてみましょう。

都市における知識やアイデアのやり取り

  大都市の重要な機能の一つは人々が直接出会う機会を数多く設け、知識やアイデアの受け渡しを容易にすることです(face to face communication)。都市が知識やアイデアの受け渡しの場として機能してきたことには多くの例があります。ここでは、エドワード・グレイザーの『都市は人類最高の発明である』に挙げられた二つの例を見てみましょう。

  一つ目の例は、紀元前5世紀頃に全盛期を迎えた古代ギリシャの都市、アテネです。紀元前5世紀のアテネはワイン、オリーブオイル、パピルスの交易で栄えていました。紀元前5世紀の前半には小アジアではペルシャ戦争が起こっており、戦災を避けるために多くの知識人がアテネに集まって来ました。ペリクレスはアテネの民主制を完成させましたし、ソクラテスは独自の問答法で多くの友人や弟子たちに大きな影響を与えました。プラトンやアリストテレスなど、ギリシャ哲学の巨人たちは軒並みソクラテスの大きな影響を受けています。この時期のアテネではギリシャ哲学だけではなく、悲劇や喜劇、歴史書も誕生しました。アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスは三大悲劇詩人として知られていますし、アリストファネスは喜劇詩人として有名でした。ヘロドトスは、『歴史』をまとめ上げ、歴史の父と呼ばれました。また、アテネはユークリッド、テアイテトス等、多くの数学者を輩出しました。

 このように、地中海世界の至るところから多くの学者や芸術家がやってきて、アテネという1か所に集まり、それぞれが持つ知識やアイデアを他の多くの人々と交換し、共有していました。学者や芸術家の交流は、次々と新しいアイデアを生み出していきました。知識やアイデアは、人々の交流の中で人から人へと移動し、その中で新しいアイデアが誕生するのです。アテネで生まれた多くの知識やアイデアは、長い間ヨーロッパでは大きな影響力を持っていました。ユークリッド幾何学は19世紀に至るまで唯一の幾何学でしたし、現代でも幾何学の基礎として学ばれています。

  二つ目の例は、江戸時代の長崎です。江戸時代に日本は鎖国を行っており、世界の技術の進歩からは隔絶されていました。それにもかかわらず、日本が明治維新以降に急速な発展を遂げることが可能になった要因の一つは、当時の西洋で使われていた科学的知識を吸収するための基礎的な考え方を知っていたからです。

  1590年にポルトガルのイエズス会伝道師たちは、長崎に東アジアで初めての金属印刷出版所を設置しました。その後、江戸幕府はカトリックとポルトガルに対する警戒心を高め、イエズス会は日本から追い出され、代わってオランダの東インド会社が長崎の出島で交易をすることを認められました。長崎には、西洋医学の知識がもたらされ、 1774年には西洋医学を日本語に翻訳した『解体新書』が出版されました。ドイツ人の医師、シーボルトはオランダ軍の軍医として来日し、「鳴滝塾」(なるたきじゅく)を開き、日本各地から集まってきた医者たちに医学を教えました。1804年には、ヨーロッパの乳がんに対する外科手術の存在を学んだ華岡青洲(はなおかせいしゅうに)より、世界で初めての全身麻酔による手術が行われました。

  長崎で医学を学んだ緒方洪庵(おがたこうあん)は大坂に「適塾」を開き、そこから福沢諭吉(ふくざわゆきち)のような教育者、大村益次郎(おおむらますじろう)のような軍事技術家、佐野常民(さのつねたみ)のような政治家、高峰譲吉(たかみねじょうきち)のような科学者、実業家が輩出されています。日本では、多くの人材がオランダを通して長崎に伝達された科学知識を学んでいました。明治維新以降、西洋の最新の知識、技術を吸収する際、それまでに身に着けていた科学的知識が基礎を作ってくれていたのです。