ちくま新書

「労苦」の彼方にある希望
『絶望に寄りそう聖書の言葉』書評

旧約聖書を専門とし、牧師としても聖書の魅力を伝える著者が、聖書の登場人物たちの七転八倒から、現代の読者に生きる力を与えるメッセージを読み解く『絶望に寄りそう聖書の言葉』。評論家の若松英輔さんによる書評を、PR誌「ちくま」より転載します。

 著者は、キリスト教プロテスタントの牧師であり旧約聖書研究における第一人者、そして優れた神学者でもある。著者の名前を『旧約聖書』の「コヘレトの言葉」とともに記憶している人も少なくないのではないだろうか。著者が読み解いた言葉は、コロナ禍にあって、生きる道を見失ったかと感じた人たちに大きな励ましと慰めを与えた。本書でも「労苦」という主題をめぐって印象的な「コヘレトの言葉」が引かれている。

「見よ、私が幸せと見るのは、神から与えられた短い人生の日々、心地よく食べて飲み、また太陽の下でなされるすべての労苦に幸せを見いだすことである。それこそが人の受ける分である。神は、富や宝を与えたすべての人に、そこから食べ、その受ける分を手にし、その労苦を楽しむよう力を与える。これこそが神の賜物である(コヘレトの言葉5章17〜18節)」。

 ある人は「労苦に幸せを見いだす」「労苦を楽しむ」という表現に抵抗を感じるかもしれない。確かに実現不可能にも思われる。だが、そう感じるのは、聖なる言葉を表層的に読み解いているからなのかもしれない。著者は「コヘレトは、「労苦する」という言葉を否定的な意味で使っているわけでは」ないといい、こう続ける。「〔ヘブライ語の〕「アーマル」を「労苦」と訳すと、「苦労ばかりの骨折り仕事」のように受け取られてしまいますが、そうではありません。コヘレトの言う労苦とは、むしろ生きることのすべてを含んでいるのです」(59頁)。

 毎日を生きる、このこと以上の「労苦」はない。そう考えてみると「労苦に幸せを見いだす」という一節もまったく違った意味に見えてくるのではないだろうか。労苦だけでなく、本書では孤独、疲労、嫉妬、つながり、死といった生きていく上で不可避な人生の試練をめぐって言葉が紡がれている。

 人生の岐路を前にしたとき人は、迷路に迷い込み、苦しみや悲しみに打ちひしがれることもある。こうしたときも私たちは、何かを光明にし、あるいは道しるべにしなくてはならない。著者は、その確かな選択肢の一つとして聖書の言葉を挙げる。「聖書の言葉は私たちに「生きよ」と促します。多くの人が生きづらさを抱えている今の時代に、このような仕方で聖書を読むことができると私は書きました(14~15頁)」という著者の思いは、本書の通奏低音になっている。次に引く一節はその好例である。以下の「私」は「神」のことである。

「私はあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにしてもあなたを守り、この土地に連れ戻す。私はあなたに約束したことを果たすまで、決してあなたを見捨てない(創世記28章15節)」。人生は思うようにならないことがある。そうしたとき私たちは、世のなかに見捨てられたように感じるだけでなく、神も仏もあるものか、という言葉があるように大いなるものにも見放されたように感じる。だが、著者が説く「神」は違う。「神」は、試練にあるものたちを見過ごさない。それだけでなく守護するというのである。

 試練にあるとき、人はしばしば答えを探す。しかし、著者はまったく別な地平に読者を導く。真の意味で宗教と呼び得るものは、安易な解答を与えないという。あらゆる試練を経験したヨブの生涯を描いた『旧約聖書』「ヨブ記」にふれ著者は「答え」をめぐってこう語っている。

「ヨブ記は答えを提示してくれるわけではありません。ヨブ記は答えがない書なのです。けれども、逆説的に言えることがあります。それは、人生の不条理について答えるのはヨブ自身だということです(185頁)」。人がなさねばならないのは「解答」を探すことではなく、全身で生きることによって「応答」することだという。つまり、人は、人が生きる姿そのものに真の意味と叡知を見出すことができる。それが著者の信仰の原点であり究極点なのである。
 

ちくま新書
『絶望に寄りそう聖書の言葉』小友 聡著
定価924円(10%税込)

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