冷やかな頭と熱した舌

第5回 
文春砲とは何なのか?――映画「FAKE」(ネタバレあり)からひもといてみた【後編】

全国から注目を集める岩手県盛岡市のこだわり書店、さわや書店で数々のベストセラーを店頭から作り出す書店員、松本大介氏が日々の書店業務を通して見えてくる“今”を読み解く!

今回は「週刊文春」とは何なのか? 話題の映画「FAKE」から読み解く後編です。前編を未読の方はこちらから
◆さわや書店ホームページ開設されました! http://books-sawaya.co.jp/
◆さわや書店フェザン店ツイッター 
https://twitter.com/SAWAYA_fezan

 

佐村河内氏の映画出演の理由を考える

 まず浮かび上がってくる疑問は、佐村河内氏は汚名をそそごうと、この映画への出演を決めたのだろうかということ。彼の考える真実や主張を話したとして、自らの社会的地位を失地回復するところまでは至らないだろう。いわゆる負け戦は確定的で、五分まで戻せばよいという程度の戦いではないだろうか。再び人々の記憶にのぼり一敗地にまみれるリスクを負うぐらいなら、記憶の風化を待つという選択もあっただろう。森監督は過去の映画や著作からも分かるように、物事をフラットに判断する目を提示してくれる稀有な人だ。平等な目を持つがゆえ、再び表舞台へと立つことを佐村河内氏に提案したのだろうが、世間の皆がそのフェアさを有しているわけではないことを知りながら、佐村河内氏に出演を促したことは少々残酷ではなかったか。
 おそらく佐村河内氏が映画への出演を決めた理由は、新垣氏の現在の世間におけるポジションに対しての恨みつらみの部分が大きいのではないだろうか。自分の主張だけを並べ立て、カメラの前で口角泡を飛ばす。

「FAKE」の音と光の使われ方

 次に、佐村河内氏は本当に耳が聞こえないのか否か。最大の争点である難聴問題は、この映画の「音」に暗示されていると僕は思う。作品を映画館で見ていて、音響がいつも以上に大きいのではないかと感じた。作中で頻繁に鳴らされるインターホンの音や、テレビの音などの生活音がやけに大きく響く。これは上映館の問題だったのだろうか? あいにく盛岡では上映が一館しかなく、しかも1週間限定だったので他の映画館との比較はできていない。しかし、東京の映画館で観た本コラムの編集者も、同様の感想を持ったという。それでも主観の域を出ないのだが、映画の開始から静寂が耳に響く一方で、一音あたりの音が大きい映画との印象を、観た方ならば誰もが受けたのではないだろうか。
 また、佐村河内邸では目の悪い佐村河内氏のために、昼でも窓に暗幕をひいている。外界を、世間を遮断するように夫婦二人で暮らす彼ら。光を遮断する様子が現在の二人の心情をうかがわせ、生活の暗さに拍車をかける。事実、二人は騒動以来4~5回ほどしか外出していないということが、本人たちの口から語られる。愛煙家の佐村河内氏はタバコを吸わない奥さんに気を使っているのか、室内では喫煙しないことにしているらしい。佐村河内氏の住む豪奢なマンション(僕から見たらだが)のベランダに出て、同じく愛煙家の森氏とタバコに火をつけていた。そのすぐそばを頻繁に、電車が騒音をまき散らしながら通り過ぎる。静寂をやぶる耳障りな音。線路のすぐそばに住居を構えることを、耳が聞こえないとの主張を補強する材料としているようにも思える。

雄弁な主と静寂の城――泣かない猫の異様さ

 カメラに向かってはよくしゃべる佐村河内氏であるが、夫婦の間には会話らしい会話は存在しない。難聴の佐村河内氏と奥さんの香さんとの意思の疎通は主に手話で行われる。客人が来た時も、家主側と客人側がテーブルを挟んで座るという普通のことが行われず、客人の隣に手話で通訳するために奥さんが座るという違和感ある光景が映される。こうやって挙げてゆくと、何もかもが嘘くさく思えてくるから不思議だ。
 鳴かない猫も異様さを際立たせている存在の一つ。映画のポスターにも用いられているこの猫は、この家の静謐のなかで育ったからなのか、音を出すことをはばかるように静かに暮らす。唯一、佐村河内氏がダイニングの椅子の上に座っていたその猫を、無骨な手で抱き上げて移動させるとき、咎めるように小さな声で鳴いた。それはまるで、映画を観ている者たちの心の声を代弁するかのようだった。
 雄弁な主(あるじ)と静寂の城。森監督がエレベータを降り、佐村河内邸に向かう足音がやけに大きく響く。1年半にも及ぶ時間を凝縮したような、そうした倦怠感に満ちた空気の漂う空間を目にしながら、僕はこの映画はどこに着地するのだろうかとそわそわし始める。居心地の悪さから一刻も早く楽になりたかったが、待ちに待ったラストは前述したように解放感とは程遠いものだった。

他言無用、最後の12分

 最後の12分間は他言無用とのことなので、ここでは書かない。観る側のいままでの人生経験、本映画の受け取り手として構築された感情、音楽の素養などによって評価は分かれるだろう。作中、森監督の「やはり僕は二人を撮りたいんだな」という発言がある。奥さんの香さんは、手話に料理にと献身的に、文句のひとつも言わずに佐村河内氏を支えるが、彼の仕事(=作曲)には関与していなかったという。騙された側、被害者側に近いところに身を置く香さんの無償の愛。その献身に対して、佐村河内氏はうしろ暗いところがあると森監督は思っていて、彼女の前で真実を語る姿を撮りたくてフィルムを回したのではないだろうかと僕は思った。
 その最後の12分間に映された香さんの表情をみると、まるで感情が消え失せてしまったかのように表情からは何も読み取れない。観ようによっては、懸命に感情を排することによって自分の内側に湧き上がってくる佐村河内氏への嫌悪感を、押し殺しているようにも見える。一番近しい人すらも感動させられない佐村河内氏の「FAKE」。ゴーストライター騒動云々の前に、彼は人格が破綻しているように思える。
 佐村河内氏は、やはりペテン師なのだろう。
 そう、僕は結論付けた。それは僕の観方であり、もちろん反対の意見の人もいると思う。きっと各人が得る結論は、どの立ち位置に立ってこの作品を捉えるかによって違うのではないだろうか。しかし何よりも重要なのは、その自分の立ち位置にしっかりと自覚的であることだ。「他者と比較して」自分が決めた立ち位置が、どこにあるのかということが重要なのである。その立ち位置を確認するために、この映画を観た人は口々に「誰かと話をしたい」と言うのだろう。

身につまされる、ある場面について

 単なる映画評みたいになってしまった話を元に戻す。「週刊文春」誌上で、佐村河内氏をペテンだとして追及したのは神山典士(こうやま・のりお)氏である。長々と映画「FAKE」について論じたのも、実は映画で示される次の場面のことを説明したかったからだ。それは僕が、とても嫌な感情を掻き立てられて、違和感を覚えた部分だ。そう、僕が忌み嫌う「いいね」や「リツイート」を無分別に表明する、あの感覚(第3回「いいね!もリツイートもいらなくない?」の参照)
 雑誌ジャーナリズム大賞という賞を受賞したのが、佐村河内問題をすっぱ抜いた神山氏だと知り、プレゼンターを引き受けた森監督は授賞式会場へと赴く。しかし、神山氏は残念ながら欠席だった。代理で登壇した文藝春秋の村井氏へと記念品を渡した森監督はマイクを握り、壇上で「いま佐村河内氏を追ったドキュメンタリー映画を撮っています」と挨拶し始める。その際に会場から発せられた笑い声が、とても下卑たものだった。
 「ああ、あの例の」「分かっていますよ、大変ですね森監督も」「アッハッハッハ」というお追従の笑い。実際に起きた事柄について伝え聞いただけで、真偽や本質を自分で確かめることもせずに、与えられた情報を鵜呑みにする姿がそこにはあった。佐村河内氏を単なるペテン師だと決めつけて切り捨てる、他人事とは思えない笑い。列席者の無自覚が、この映画を観る前の自分の姿と重なる。身につまされる場面。

「週刊文春」は読者を誘導する

 取材対象者の事実を積み上げ精一杯の結果を出した後、世間がその後に下す評価には関心がないと新谷氏は言う。加えて人間を掘り下げることに興味があると語る新谷氏は、新谷氏なりに佐村河内氏を掘り下げる試みをしたのだろう。しかし「週刊文春」の積み上げる事実には、明らかに読者を誘導する「文脈」があることを忘れてはならない。
 例えば、ショーン川上氏の経歴詐称に関するスクープでは、氏の高校時代のあだ名がホラ吹きを意味する「ホラッチョ川上」だったと書かれている。このように騒動の渦中にある人の周囲から取ったコメントが複数あるとして、そのすべてを誌面に載せるわけではない。もちろん紙幅の関係はあろうが、その中から記事の文脈に都合のよいコメントを採用しているはずなのである。もしかしたらそれが、渦中の人を悪く言っている唯一のコメントの可能性だってあるはずだ。

「文春砲」をありがたがる人と「権力」

 週刊文春の編集部は約50~60人の大所帯で、そのうち40人ほどがスクープ取材にあたるという。毎週200本近く上がったネタのなかからコレだというものをより深く取材し、誌面を構成するらしい。スクープにかける情熱は疑いようもなく、他誌と比べてその存在感は段違いと言えよう。
 だからこそ「週刊文春」の存在が大きくなったことに疑いはない。もはや権力に対抗しうる「権力」であると言えるのではないだろうか。
 本来スクープの価値を決めるべきは読者だ。しかし映画「FAKE」のレビューなどをネットで拾い読みすると、「文春砲」をありがたがる人を含む現在の受け取り手側の「判断力」は、著しく低いのではないかと疑ってしまう。追随するメディアの数であったり、識者による価値の認定に任せて、自分で判断する力を失っているように思う。
 それらの数や価値の認定に左右される人は、「すごいの?」を「すごいかもしれない」→「きっとすごいのだろう」→「すごいに違いない」と変化させてゆく。「週刊文春」が提示した「事実」は、スクープの表層部分を鵜呑みにする人々によって「文脈」の部分だけが増幅されて広がってゆく。これは無自覚な権力への加担に他ならない。
 読者がその加担に無自覚な限り、「文春砲」は、砲弾を大きく、勢いを増して今週も誰かに打ち込まれるだろう。
 想像力を働かせれば、その砲弾が自分に降りそそぐ可能性だって十分にある。佐村河内氏がそうであったように、「非識字書店員」などと嘘をついて世に出るようなことはしまいと、固く誓う今日この頃である。


【補足】
SMAP解散騒動のさなか「週刊文春」は、メルマガ読者に対して「ジャニーズ危機 一番悪いのは誰だ」という緊急アンケートを実施しました。その回答の10位に「週刊文春」とあったことに、読者の方々の見識の高さと「週刊文春」の良心とを感じましたことを追記いたします。


なお本稿を書くにあたって、下記のサイトを参照させていただきました。
http://news.mynavi.jp/articles/2016/04/14/bunshun/
http://news.yahoo.co.jp/feature/119
http://www.zassi.net/

関連書籍