単行本

後戻りはできない
『私たちが記したもの』(チョ・ナムジュ著 小山内園子・すんみ訳)書評

『82年生まれ、キム・ジヨン』の著者、チョ・ナムジュの最新邦訳短編集『私たちが記したもの』(小山内園子・すんみ訳)を、くぼたのぞみさんが一編ずつ丁寧に読み解く!

 チョ・ナムジュの大ヒット作『82年生まれ、キム・ジヨン』が紹介されてから四年あまりが過ぎた。韓国社会で見えない状態に押し込められていたジェンダーの問題が次々と書かれ、祖母、母、娘といった「家」に縛られてきた女たちの繋がりを軸に、記憶と現在をめぐる痛みと絶望に、新たな光が投げかけられた。この間、日本に紹介された韓国文学は質量ともに目をみはるものがある。

 この短篇集『私たちが記したもの』に収められた七つの作品には、女たちの身体と精神の日々の痛みが描かれている。

 最初の「梅の木の下」は、介護施設にいる姉を見舞う三人姉妹の末の妹が語り手だ。孫息子がいじめられていると知ったおばあちゃんが、商売で使う肉切り包丁を握って悪ガキたちのアジトに出かけていく。その孫息子が、後に、施設にいるおばあちゃんの足の爪をきれいに切ってあげていたという話がいい。

 次の「誤記」はヒット作を出した作家の体験談かと思わせる物語である。むかし教わった教師と再会して、酒を飲み明かした後その教師が、新作を読んであまりに自分の体験と酷似していると思い込み、他の教え子といっしょに誹謗中傷の行為に走る。いかにもありそうな話で背筋が冷たくなる。

 突然いなくなった父親を探す家族の姿を描いた「家出」は、あ、これはどこかで読んだかも、と思っていると「韓国・フェミニズム・日本」特集の『文藝』(二〇一九年秋季号)に初期バージョンが掲載されたと「訳者あとがき」にあった。そうだった! 二人の男の子の後に生まれて父親に溺愛された娘が語り手で、物語はユーモラスに展開される。

「ミス・キムは知っている」はコワーイ話だ。職場の理不尽がこれでもかと描かれた後、急にミステリーへ突入するのだから。ミス・キム自身は話題になるだけで、実物は一度も登場しない。散々いじめられて会社を辞めた彼女がすべてのことを知っていて、陰で超能力的パワーを発揮するのだ。

 本書中もっとも長い「オーロラの夜」もまた女三代の物語である。還暦近いワーキングマザーを中心に、交通事故で死んだ夫の母と、結婚して働きながら赤ん坊を育てている娘が登場する。後半では、主人公が生涯に悔いを残さず自分のやりたいことをやると決心して、オーロラを見るツアーに出かけるのだが、なんと同行するのはもうすぐ八十歳の「姑」だ。極寒の地への旅は、いわゆる「女の仕事」とされるものをほぼ終えつつある五十七歳の女性と、アップデートを怠らない高齢女性とのハッピーなシスターフッド・ファンタジーになっていく。

「女の子は大きくなって」ではDVの痕跡を随所にちりばめながら、ここでも女性三世代の絡まりが描かれる。

 最後の「初恋2020」は小学五年生の女の子と男の子の淡いラブストーリーだ。コロナ禍とそのために生じた経済格差が影を落とし、一気に「いま」に引き戻される。

 チョ・ナムジュはストーリーテリングの巧みな作家だ。テレビの仕事をしてきたと聞いて納得した。この短篇集も、ここはドラマ仕立てにするとどんなシーンになるかな、と想像しながら読んだ。読んでいると、自分のなかから溢れてくることばを行間や余白に書き込みたくなる作品が多い。

 二〇一八年十二月に日本で『82年生まれ、キム・ジヨン』が出たときは、私も夢中になって読んだ。文庫版のあとがきに斎藤真理子さんが書いているように、フェミニズムをテーマとして書くこの作家の「戦略にまんまと引っかか」ったのだ(笑)。

 あれから何が変わり、何が変わらないのか。ここ数年のあいだにフェミニズム関連の多彩な書籍が続々と刊行された。多くの人たちがその本を開き、読んだ。それでクリアになった視界がたしかにある。日本社会も後戻りできないところまできたのだ。そのことを確認させてくれる一冊である。

 

関連書籍

チョ・ナムジュ

私たちが記したもの (単行本)

筑摩書房

¥1,760

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