アッパーダラムサラーにようやくたどり着いたのは、灰色の曇り空がのしかかってくるような朝だった。デリーから列車に揺られてカシミールやパキスタンに隣接するパタンコートに入り、駅前のホテルで仮眠をとってからバスに乗りこんだ。
下ろされたところはデリーの街並みとほとんど変わらなくて、ここにチベット亡命政府があるの?? と首を傾げていたら、ここはダウンダラムサラーだから、バスを乗り換えろと言われた。ダラムサラーには上と下があるのか。ガイド本を読み返そうかと思ったけれど、眠いしいかにもチベットを目指しそうな外国人旅行者がウロウロしているから騙されたわけではないのだろう。スマートフォンどころかネットカフェすらない時代のことだ。
しょぼくれたマイクロバスに乗り換える。欧米系のバックパッカーたちが席に座っているのを見て間違いないだろうと確信した。途中のバス停で頭髪を剃り上げあずき色の衣をつけた僧侶らしきひとたちが乗り込んできた気配を感じつつ、激しい揺れとカーブに振り回されてリュックを抱きしめたまま眠りに落ちていった。私は大きく揺れる乗り物に乗ると深々と寝入ってしまう体質で、未舗装の山道などを車で移動するときにはだいたい途中の記憶がない。
山の上の終点に辿り着き、乗客が降りていく気配で目覚めた。外に出るといきなり別世界が広がっていた。空気が薄い。そして行きかう人の顔つきのほとんどがモンゴロイド系になっていた。チベット人だ。それといかついバイキングみたいな欧米人バックパッカーたち。ネパールの高地の村を思い出させる建物。
安宿はバスの停泊所から一本道に沿って並んでいた。遅めだけどまだ朝なんだからなんとか見つかるだろうと思って、端から宿泊交渉していったのだが、満室ばかり。ウェイティングリストがある宿まであって、大いに焦った。
一本道のかなり奥の、山に近いところに建つ寂れた宿になんとかチェックインできたので、揺れでガタガタになった身体を一旦ベッドに沈めた。ウェイティングリストのある人気宿に思いを馳せる。あっちに泊まりたかったな。ちょっと気の利いたログハウス仕様で、入り口のラウンジはテーブルが並び、人で賑わっていた。宿泊客以外でも利用できそうだった。そしてこのラウンジも結構人がいた。カウンターにはエスプレッソマシーンがあって、コーヒーに西洋式のスイーツ、レモンパイがメニューボードに書かれていた。うう、食べたい……。
四半世紀前のインドのことだから、今とはかなり違っているかもしれないけれど、当時はデリーでも、西洋式のケーキを食べるには高級ホテルのレストランやカフェラウンジに行くしかなかった。料理も同じくで、インド料理以外を出す店に行こうと思ったら高級ホテルしかなかった。他の国と比べても突出して自国以外の料理店が少ないのがインドだった。ついでにコーヒーを出してくれるところも、チャイほど多くはなかった。
カレーもナンも美味いのだが、毎日延々と食べ続けているとさすがに飽きる。揚げ物もごはんもなにもかも、もれなくカレー味なのだから、一度飽きるとなかなか辛い。
折角アッパーダラムサラーに来ているのだから、ランチはインド式より優勢を誇っているチベット式の餃子、モモをまずは食べた。実はダラムサラーに来る数か月前にネパールのエベレスト周辺をトレッキングしていたので、モモもチャイも経験済みではあった。ああ、チベット文化圏に再び来たのだなあという感慨に浸ってみたものの、脳はさっき見たレモンパイというボードの文字に引っ張られている。
小綺麗でコージーそうではあるが、どこから見ても高級ホテルとは言えない、小さな安宿のラウンジで、エスプレッソとレモンタルトを出すとは、どういうことなんだろうという興味も手伝い、ランチ後のデザートと言い聞かせて行ってみることにした。
厨房の奥からレモンタルトを持ってきたのは金髪碧眼のごつい大男だった。名前をボブという。なるほどそうか、彼が作っているからかと思ったのだが、それよりなによりもったりと黄色いレモンカードと純白のメレンゲのコントラストに目を奪われた。メレンゲはちゃんと波打模様を作り、焦げ目もついてる。ちゃんとしてるじゃないか。うわー。かなり長い間こういう形状のお菓子を口にしていなかった。
日本にいたらそこまで珍しいお菓子でもないのだけれど、沁みるほど嬉しい。フォークを突き刺して口に運ぶ。タルト生地もバターと小麦の風味がグッと来る。なによりレモンの酸味とカスタードの甘みのバランスがいい。きちんとしたレシピで手作りした味が口の中に広がる。うっまーい!! インドにいながらこんなにおいしいレモンタルトに出会えるなんて。
ボブはアメリカ人で、旅の途中でここに居ついたという。宿のオーナーは別にいてチベット人だそうで。夜のメニューにはパスタやピザなどが並んでいる。ものすごく食べたかったけれど、部屋と同じく予約でいっぱいで、比較的入りやすい午後のカフェタイムに通うことにした。
