遠めの行路に印をつけて

星を目指して

イスラエルはテルアビブ。イエメンからやってきたユダヤ人の街区で、来し方に思いを馳せつつ、少し塩辛い現実も味わった旅の一夜。

テルアビブに到着した翌日、安宿のラウンジになんとなく降りて来た日本人客たちみんなで夕ご飯を食べに行くことになった。昼間は仕事の手続きと打ち合わせの手配で終わったし、入国初日は安息日ですべての店が閉まっていたから、イスラエルに来てからどこにも出かけていないに等しい。

 連れられて行ったカルメル市場はいきなりアラブのスークのようなごちゃごちゃ具合で観光客も地元のひとも一手に引き受ける賑やかさだ。野菜や果物、香辛料や土産物の店をかき分け、屋台でフムス入りピタパンを買った。みなさんいつも海を見ながら食べているそうで、スーパーでビールも買って海岸に出た。

 テルアビブは海岸沿いにある。5度くらいは東に傾いているけれど、南北にむけて一直線にまっすぐ、ナイフで切ったような海岸線だ。宿はこの海岸線に平行して走る道路の3本内側にあたるベン・イェフダー通りに建っている。カルメル市場はベン・イェフダー通りを南下した突き当りだ。地理音痴な私にもとても分かりやすい。

 海辺でワイワイ話しながらピタパンをほおばるうちにあたりは暗くなり、星が鮮やかに瞬き始めた。いつのまにかイスラエル人男性が混ざっていた。宿に長く滞在している日本人男性の友達だそうで、映画を撮っているのだそうだ。英語と日本語交じりで適当な会話をしているうちに、イエメン人地区のそばに素敵な店があるから行ってみようという話になった。イスラエル人男性が案内してくれるらしい。

イエメン人地区は、カルメル市場を中心とした区域だ。あまり知られていないがアラビア半島の先端であるイエメンには古くから多くのユダヤ人が住んでいた。古代イスラエル・ソロモンの時代にイエメンに移住したのだ。

イエメンのユダヤ人のイスラエル移住がはじまったのは1881年。イスラエル建国よりも前で、想像していたよりずっと早かった。当時イスラエルにメシアがやって来るという噂が流れたためだという。その後、イエメンで起きていたユダヤ人の虐殺や弾圧を回避するため、すべてのユダヤ人のイスラエルへの受け入れを秘密裏に行った1949年から50年の「魔法の絨毯作戦」で、移住はほぼ完了した。「魔法の絨毯作戦」では、イエメン以外にもジブチやエチオピア、エリトリア、エジプトなどなど中東の各国からユダヤ人が輸送されたのであるが、なかでもイエメン人の多さは突出していたようだ。

千年単位の歳月を経て世界中に散りながらも、決してその地に埋もれずに独自の宗教を信仰し、彷徨(さまよ)いつつも自分たちの国を希求してきたユダヤ人の生き様が気になって、旅先ではさまざまにユダヤ人の痕跡をたずねるのが、ちょっとした習慣になっていた。

90年代にイエメンに旅したとき、意図せずかつてユダヤ人が住んでいた地域に足を踏み入れていた。首都のサナアで出会ったイギリス人留学生が住んでいる白い家の上部についたカマリア窓のステンドグラスがダビデの星だったのだ。カマリア窓はイエメン建築の特徴的な装飾で、半円でカラフルな幾何学模様のステンドグラスが嵌(はま)っている。このあたりにユダヤ人が住んでいたんじゃないのかなあ、今は誰もいないよと言われた。移住作戦から40数年経っていたのだから、そんなものだろうか。他にユダヤ人の痕跡はないのかとたずねまわると、大きなスークの中にシナゴーグが残っていることがわかって見に行った。廃屋は火事にでも遭ったのだろうか真っ黒く煤(すす)け、半壊した天蓋の形だけが神聖な建築物であったことを物語っているようだった。

などということをぼんやりと思い出しながら暗い街区を歩いた。あそこにかつていたイエメン人が、ここに移り住んだのだなあ。道が狭く曲がりくねり、塀が高くてあたりが見えにくくて迷路のようだ。雰囲気は違うけど、サナアの家も迷路のような街区にあった。まあ、民族文化関係なく、旧市街的なところは迷路が多い。何度か曲がるとどこから来たのかさっぱりわからなくなる性質なので、この迷路には各地で悩まされる。

ふと気が付いたらみんなで一緒に行くはずが、だれもついてきていなかった。あれ? いつのまにか私とイスラエル人男性だけで飲みに行くことになっている。ちょっと嫌な予感がしてやっぱり私も帰ると言ったのだけど、もうすぐお店に着くよ、ほらそこだよと言われ、しぶしぶ店に入った。

店は確かに隠れ家っぽくて素敵なところだった。彼は延々と自分が撮りたい映画の話をしていて、予算が足りないことや、映画業界の弊害などについても英語で熱弁を振るう。パトロンを探したいのだろうか。そのうちにあなたの持っているビデオカメラはとてもいいモノですねと始まった。ヤバいな。とりあえずこの赤ワイン一杯飲んで帰ろう。

しかしその一杯がどうも怪しい。いや、完全に黒なわけではない。まあまあ酩酊してきたというレベル。意識もあるし、身体も動く。一服盛られたと判断するには弱い。しかしひとりで宿まで帰るにはちょーっと微妙な酔い具合となった。そこまで酔う量を飲んだつもりはなかった。とにかく意識と身体がまともなうちに帰らねば。

素敵なお店につれてきてくれてありがとう。でも疲れたからもう帰るね。そういって勘定を促した。まだもっと話していたいなどと言うのを振り切って、店を出た。男はホテルまで送るよと言ってきたが、これ以上話をしたくもない。この男、微妙に信用できない。しかしひとりではこの旧市街の迷路を抜け出す順路もわからない。困った。どうしよう。

空を見上げた瞬間に、ひときわ強く瞬く星が目に入った。あなた! さっき海岸でピタパンを食べていた時に、海の上に、まっすぐ西方向に出ていた星じゃないですか。まるで北極星のような力強さだけど、方角はまごうことなく西の空。となりに従えた弱弱しい星も記憶そのまま。そう、あの星を目指して歩けば、海に出ることができるはず。海に出たら北上すればなんとかなる。

そっちは違うよ。道が違うよ。男の声がするが、無視して歩き出した。おまえより星を信じる! 星が見える方へ曲がり、歩く。

何度目かの道を曲がると、急に見晴らしがよくなった。どうやら迷路の街区を抜けたらしい。道の向こうの建物の向こうに海の気配があった。ベン・イェフダー通りだ。念のため海が見えるところまで歩いていって確認した。良し。正しい。海と星ほど確かなものはない。

男はつかず離れず心配そうについて来たが、あと50メートルで宿というあたりで消えていった。もしかしたら心配してついてきてくれたのかもしれないが、倒れたら懐にあるものを盗りたかったのかもしれないし、もはや確認しようもない。

宿に戻って部屋に入り、ベッドに倒れ込んだ。星だけを頼りに歩いたことなんて、かつてあっただろうか。正真正銘生まれて初めての、東方の三博士体験。二度目は御免被りたい。