遠めの行路に印をつけて

ヒジャブをまとってイスファハン(2)
中庭の情報ノート

スマホもSNSもない時代。バックパッカーが集う宿でよく見られた光景。

 イスファハンで見つけた宿は、イマム広場に歩いて行ける距離にあり、世界中からバックパッカーが集まって来ていることで名を馳せていた。部屋は暗くベッドのスプリングもヘタって腰を伸ばして寝ることができなかったけれども、吹き抜けの中庭は明るくて気持ちよかった。

 イランの6月はかなり暑く、午前中に観光やスケッチにでかけても12時過ぎには必ず一度宿に戻らねばならない。うかうか13時まで外にいると気温が高くなりすぎて本当に一歩も歩けなくなるからだ。倒れる前にホテルに駆け込むように帰り、昼食後は大人しく日没を待つ。多くの店舗もこの時間帯は閉店し、日没後に再開する。

 そんなわけで昼食後の午後は昼寝をするか、直接日差しは入らないけれども明るい中庭に出て他の宿泊客と話をしたりしてすごし、暗くなってから夕食に出かけるのがイスファハンに来てからの日課となった。

 中庭の人造池を囲むように並んだテーブルには情報ノートが置いてあった。スマホもなく、Eメールのやりとりが精一杯だった時代、旅人たちにとってこの手書きの情報ノートこそが、最新の現地情報を得る最も有効な手段だった。持ち出し厳禁の、宿の宝と言っても過言ではない。世界各地の安宿に、この手のノートは存在していたと記憶している。

 もちろん正当な情報収集手段はガイドブックだ。広く信頼されていたのは“地球の歩き方”もしくは“lonely planet”だが、出版物なので情報は最速でも数か月、改版が遅ければ1年2年のタイムラグができてしまう。

 “地球の歩き方”は毎年律儀に更新し表紙に年を表記して出版していたが、“lonely planet”は英文で買える書店が限られていた(2000年にはすでにAmazonもあったが私はまだ書店で本を買うことが多かった)のに加え、あまり観光地化されていない国を買ってみると刊行年から数年経過してることも少なくなかったので、物価や為替レートは当てにならなかった。

 それが情報ノートでは、1週間前、3日前のフレッシュな情報を手に入れることができたのである。あくまでも口コミで、誰かひとりが体験したことにすぎないが、最低限のルールとして記入した日付体験した日付は書いてある。

 ただし紙のノートに書かれる内容は実に雑多で、書き込み順で検索できるわけでもなく読みにくい筆跡の書き手もいたりして、閲覧性は異様に低い。しかも半分くらいは個人的な旅の感想や感傷が書き込まれていて、情報としては役に立たないものだった。

 ここまで来たよ!! と名前を書いて記念とするようなものの中に混ざって、どこの店主は英語が堪能だの、店員がナンパしてくるだの、いくらまで値切れただの、あの橋のたもとに立ってる男に声かけられて騙されたので注意しましょうだの、あそこの換金手数料は安かっただの、イスファハンの種々雑多な旅情報があり、さらにそれらの合間に陸路で出国するにはどこをどのように通るのがよかったか、もしくはダメだったか、いくらかかったかなどの移動、出入国情報が挟まって来るといった具合。読み続けてお目当ての情報を探し当てるには少々忍耐が必要だった。

 チラチラと読んでみると国境の情報は目まぐるしく変わることも多く、ノートの情報が非常に信頼、重用されているようだった。書かれている言語は日本語がほぼ半数を占め、英語、ハングル、ドイツ語などが続いた。日本人宿泊客が多いのか、それとも日本人がノートに書くのが好きなのか。もしくはその両方か……。

 温かいチャイを飲みながらノートをパラパラめくり、パタリと閉じたところで

「あ、ノートいいですか? 日本人ですよね?」と男性旅行者に声を掛けられた。

「どうぞ」とノートを手渡すと、彼は1ページずつめくりはじめた。何かを探しているようだった。

 このノート、私にはそれほど必要な情報はなかった。買い物や両替は本当にダメなところは一応旅慣れてきてなんとなく見当がつくし、レートは聞いてダメなら換金しなければ良い。基本は出たところ勝負でよかった。

 買い物のあとでノートを読んで何をいくらで買ったのかの答え合わせのようになり、人と比べて数十円から数百円損していたと知って落ち込んでしまうのも煩(わずら)わしかった。

 バックパッカーにありがちな「なんでも1円でも安く入手してやる」ことが目的のようになっているノリは、海外に出始めた20代前半にはとても面白かったが、もともと計算が得意でないこともあり、30歳近くなる頃には疲れてきていた。そんなことより現地語の一つでも覚える方が自分にとっては有益に思えたのだが、言葉の情報はほとんどなかった。

「ノート、なにか情報をさがしてるんですか」

「あー、トルコに出たいと思ってまして国境の情報を……。タブリーズとか行かれました?」

 いや、私はテヘランとマシュハドしか滞在してないんでわからないですね

 その男性Sさんは20代後半で、会社を辞めてひとり旅をしていた。陸路空路交えてタイ周辺、インドからパキスタン、イランと来てこれからトルコに向かうのに、陸路にするのか空路にするのか迷っているのだそうだ。

 後から中庭にやってきたIさん(こちらも二十代後半の日本人男性で情報ノートを読みに来た)と三人で夕食を食べにいくこととなる。ケバブ屋で注文する段になって、彼らが注文を英語で押し通そうとするのを聞いてちょっと驚いた。ほとんど通じないことが多いから。それでよくイランを旅しているなあ。きついだろうに。ちょっと得意げに片言のペルシャ語で注文してみると、おおと感心され、店員も表情が変わる。ほんの少しでも読み書きできるようになると、現地でのやりとりが格段に楽になり、彼らが何を言いたいか、情報がどっと増えるんだけどなあ。

 話を聞いてみると、SさんだけでなくIさんも、そしてどうやらあの宿に来る日本人以外の宿泊客のほとんどが、半年、1年、など長い期間をかけてユーラシア大陸諸国を複数周遊しており、その途中でイランに立ち寄っているだけなのだった。限られた日数の滞在でまた隣の国へと移動していく彼らにしてみると、ペルシャ語を憶えたりイランの歴史文化を特別に学ぶ暇はないということなのだろう。

 長旅故に予算も倹約したいだろうから、情報ノートのあれがこれが安かった情報も言語がわからないだけに頼りにするということなのかもしれない。

 情報ノートは多数派旅人のニーズに合わせて形成されていたのである。なるほどねー。

 スマホとSNSが当たり前になった現在、世界各地の安宿にあった情報ノートは一体どうなったのだろう。20年単位で残っていれば、旅風俗の移り変わりが分かる資料となる。情報を得る手段としてはスマホに取って代わられたとしても、宿泊記念に名前を書いて一言書きたいという人たちのニーズは今も変わらずありそうで、案外今も残っているのではないかと睨(にら)んでいるのだが、どうなのだろう。いつか確かめにイスファハンを再訪するのも面白いかもしれない。