遠めの行路に印をつけて

ヒジャブをまとってイスファハン(3)
ロールモデル

男性の旅は無邪気でいい、それに引きかえ女性の旅の制約の多さよ。もっと自由に旅することができたら、、、と無念さをかみしめていた時に現れたのは。

 昼下がりの中庭に集まって来る日本人ひとり旅男性たちとぼちぼちダラダラと会話を交わしてみると、おおまかな旅程の他にもうひとつの共通項が浮かび上がってきた。

 沢木耕太郎の『深夜特急』を愛読していることだった。

 『深夜特急』全三冊が書籍として新潮社から刊行されたのは1986年と1992年、70年代に著者が旅した体験を元に描かれている。私がイスファハンで大陸横断中の男性たちと話したのが2000年だから、刊行からかなり年月が経っている。それに90年代には夥(おびただ)しい数の貧乏旅、バックパッカー紀行本が刊行されてきたはずだ。けれどもそれらすべてをずずっと押しのけ、会う人会う人みんな『深夜特急』を挙げる。ひとり勝ちなのだ。

 『深夜特急』を心に抱きしめて、旅日記を書き記し安宿のベッドに転がっていた日本人男性バックパッカーは、いったい何人いたのだろう。冗談ではなくのべ1万人くらいはいたんじゃないだろうか。いやもっとか?

 たしかに面白く、素晴らしい紀行作品だと思う。名作であることは間違いない。だけど私は『深夜特急』を読んでも残念ながら彼らのように無邪気に共感し憧れることはできなかったので、「ああ、やっぱり『深夜特急』は人気ですよねー」とニコニコ頷(うなず)きながらも心の中では「またか……」とちょっぴり呆れていた。

 ああいう放蕩(ほうとう)は男性だから世間に受け入れられ賞賛されているのではないか。

 私が『深夜特急』を手に取った時、すでに貧乏旅の楽しさと同時にある種の肩身の狭さを知っていたため、男は無邪気でいいなあ。私も男に生まれて呑気になんも考えずに旅したかったよなあという気持ちが先に立ってしまったのだ。

 20代前半から親に噓をつき、ひとり気ままに時々無茶をして、ギリギリ危険を躱(かわ)しながら海外の旅を楽しんできた。しかし同時に海外、特にイスラム圏で何か被害に遭ったら、それみたことか女ひとり旅なんて、と世間や親から袋叩きに遭うだろうという恐怖も常に抱えていた。無事に旅を終えて帰ってきても、女性がひとり旅なんてと眉を顰(ひそ)める人もいた。旅を重ねるごとに危ない目に遭わないようにとスキルアップをしてきたけれど、なにかあったら叩かれるという不安は消えずにいつも私の心の中で燻(くすぶ)っていたのだ。

 女性だからということで。

 もし当時、強姦でも窃盗でも加害者側が悪いに決まっていて、被害を受けた側が叩かれるのはおかしいのだと跳ね返す力が自分にあったら、せめてそう言ってくれる先輩女性に出会えていたら。私はもうすこし無邪気に旅ができただろうか。

“Hi”

 ガラガラと音が響き、黒い大きなキャリーバッグを引きずった小柄な女性が中庭に入って来た。ずらしたスカーフから覗(のぞ)くあせた黄土色の髪はくるくるウェーブがかかり、白い肌には幾重にも皺(しわ)が刻まれていたけれど、目は青くキラキラと輝いていた。60代後半? 70代? だろうか。

 高齢の欧米人女性の旅行者はどこでも珍しくないのだが、たいていツアーか夫婦で、いいお値段のホテルにいる。優雅な老後という感じ。彼女のように単身で、しかもこんな安宿にふらりとひとりでやって来るなんて珍しいなんてもんじゃない。つい注目してしまう。

 黒いキャリーバッグにはアクリル絵の具で赤い花が描いてあった。

「すてきなバッグ。ご自分で描かれたんですか」思わず話しかけると

「そうなの。ありがとう。私画家なのよ」

 女性は急いでいるようで、中庭の奥の部屋にキャリーバッグを押し込んでそのままレセプションへと小走りに去ってしまった。

 夕食後に宿に戻り中庭に入って行くと、今度はごっついゲルマン系の男性がふたり、どっかり座ってチャイを飲んでいる。20代か30代か。スキンヘッドでタンクトップは筋肉でもりもりと盛り上がり、タトゥーがみっしりと刻まれている。バイクで大陸横断している途中だという。そういえばホテルの前にチョッパーハンドルの大きなバイクが2台とまっていた。あれに乗っているのか。大きな体に大きなバイク、ピッタリ似合う。かっこいいなあ。彼らの場合もやっぱり映画『イージーライダー』に憧れて、とかあるんだろうか。聞いてみたい気もしたが遠慮した。

 部屋に戻り就寝した翌朝、スケッチに出かけようとしたら、このゲルマン系バイク男ふたりと小さな画家婦人が揃ってチェックアウトしていた。男が彼女の黒いキャリーバッグを軽々と持ち上げ、外に停めてあるバイクに積み込んで縛り付けている。

 あれ、彼らと一緒に行くんですか??

「そうよ。わたしたちトルコから一緒に旅してるの。」

 え!!!  老女ひとり旅でも強烈だったのに、まさかのごついバイカー大男二人を従えていたとは。しかも親子よりも歳が離れている? 組み合わせなんですけど。

 小さな老婦人はヘルメットを被り大きなバイクの後ろにちょこんと乗り込む。一体どうやって知り合い、どこまで一緒に旅するのか、彼女の旅の目的は?? 興味がムクムク湧いて来たのだが、ドルルッドルッと音を立てて彼らは車の流れに呑み込まれて行ってしまった。

 かっこいいなあ……。思わず声がでていた。自分も年老いてからも彼女みたいに目を輝かせて自由きままな旅をしてみたい。若い男とタンデムしたりして。想像したらふわっと身体が軽くなった。