移動する人びと、刻まれた記憶

第3話 釜山のロシア人街②
赤いカーディガンを着た女性とヴィクトル・ツォイへの思い(後半)

韓国から、世界へ。世界から、韓国へ。人が激しく移動する現代において、韓国の人びとはどのように生きてきたのか? 韓国史・世界史と交差する、さまざまな人びとの歴史を書く伊東順子さんの連載第3話後半です。映画『LETO』でも脚光を浴びたソ連のロック・ミュージシャン、ヴィクトル・ツォイが登場します。

伝説のミュージシャン
 インターネットで世界中の情報が手に入る今、あらためてヴィクトル・ツォイの名前を検索するとものすごい数の、しかも新しい情報がヒットする。モスクワのアルバート通りにはファンが書き込んだメッセージや絵でいっぱいの「ツォイの壁」があり、彼が亡くなって30年余りが経過した今も、人々の足は途絶えない。毎年、命日の8月15日が近づくと、壁の前ではキノーの音楽流れ、追悼の花と火をつけたタバコが捧げられるのだという。
 「ツォイの壁のことは、私も驚いているんです。もちろん1980年代に彼の人気はすごかったけど、それでも一番というわけではなかった」
 奈加・キセーニヤさんは当時のソ連を記憶する人だ。
 この稿を書くにあたり、ネットや書籍情報だけではなく、実際に彼を知っている人に話が聞きたいと思っていた。でも、そのために戦争中のロシアまで出かけていくこともできない。釜山駅前のロシア人街にも何度か足を運んだが、新型コロナと戦争の影響で通りの雰囲気が一変してしまった。キリル文字の看板こそあるものの、営業を続けているロシア料理の店は数軒のみ、客もほとんどが韓国人だった。
 そんな時、「ツォイの最後のコンサートを見た」という人がいると聞いて、幸運に感謝した。今は東京で暮らすキセーニヤさんはロシア出身で、モスクワ大学在学中の1990年6月、キノーも出演した大規模なロック・フェスティバルに参加したという。
 「私はアクアリウムというバンドが大好きだったのですが、キノーもすごい人気でした。ツォイは音楽もそうだけど、詩がよかったんです。彼は詩人だった。ロシア人にとって、詩はとても大切なんです」
 後でもふれるが、キセーニヤさんは「ロシア人」のアイデンティティについてずっと考えていると言い、自分なりの答えとしてそれは「ロシア語」だと言っていた。
 「ツォイは『アッサ』という映画でものすごく有名になりました。私たちの世代はみんなが見た映画です。最後のシーンでは、ツォイが『我々は変化を待っている』と歌ったんです」
 キセーニヤさんはロシア語でその歌詞をつぶやいた後、ゆっくりと日本語に翻訳してくれた。
 映画『アッサ』(セルゲイ・ソロヴィヨフ監督、1987年)の最後のシーンには1万人のエキストラが集まって、ライターの火を掲げながらヴィクトル・ツォイの歌を聞いたという。1980年代初頭にアンダーグラウンドで始まったロシアン・ロックは、この時を境に一気に表舞台に躍り出た。
 「毎日がワクワクするような時代でした。ツォイは今もあの時代の記憶と共にあるのだと思います」

映画『LETO』の透明感
 キセーニヤさんに会う前に、いくつか質問を用意していた。その一つはヴィクトル・ツォイの家族のことだった。彼の父親がカザフスタン生まれの高麗人2世であり、母親はウクライナ出身のロシア人であったこと。それは当時のロシアでどんなふうに受け止められたのか?
 「そういうことを誰も気にしていなかったと思います。いろんな民族の人がいるのは当たり前。そもそも『純粋なロシア人』など存在しなかった。外見の違いはスパイスにすぎない」
 それを聞いて、映画『LETO』(キリル・セレブレンニコフ監督、2018年)に漂う、柔らかな空気を思い出した。『LETO』は1980年代初頭のレニングラードを舞台にした映画で、カンヌ国際映画祭でも大きな話題となった。客観的なほうがいいと思うので、公式ウェブサイトの紹介を引用する。
 「ロシアの伝説的バンド『キノ』のヴォーカルであるヴィクトル・ツォイのデビュー期を基に、彼の音楽的才能を見出したロック・シンガーのマイク・ナウメンコ、そしてその妻ナターシャの3人をモデルとし、ペレストロイカ目前のレニングラードで純粋に“自由”と“音楽”を追い求めた若者達のひと夏を描く」(https://leto-movie.jp/about.php
 ここでもキノーは伝説的なバンドと紹介されている。当時まだ19歳だったヴィクトル役を演じたのは、ドイツ出身の韓国系2世ユ・テオ。最初の海辺のシーンに登場する彼は、まるでヴィクトル・ツォイの再来のようだった。
 その場面でも、後の場面でも、彼は映画の中で唯一の「東洋系」だったのだが、そのことの特別さが一切ない。これまでハリウッド映画をはじめ、多くの映画で「東洋系」が登場するシーンを見てきたが、『LETO』はそれのどれとも違っていた。

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