移動する人びと、刻まれた記憶

第1話 私もナグネだから
中国朝鮮族の映画監督チャン・リュル(前半)

韓国から、世界へ。世界から、韓国へ。人が激しく移動する現代において、韓国の人びとはどのように生きてきたのか? 韓国史・世界史と交差する、さまざまな人びとの歴史を書く伊東順子さんの連載の開始です。第一話は、映画監督チャン・リュルの話。今回は、その前半をお届けします。

はじめに 
 暑すぎた夏もやっと終わるかなという9月初め、釜山から福岡行のフェリーに乗った。日本と韓国を結ぶ定期航路はもれなく新型コロナのパンデミックで止まっていたのだが、昨年末に一部で運航再開、約3年ぶりに海の道がつながった。
 中国の武漢発「新型肺炎」が話題になり始めたのは2020年の年明け、横浜港に停泊したクルーズ船の中で感染が広がったのが2月、日本政府が韓国や中国からの入国禁止を発表したのが3月、欧米などではすでに感染爆発ともいえる状況になっていた。
 「ロックダウン」、「都市封鎖」、「県境を越えるな」、「隔離せよ」―― 世界中の人々が各国政府の命令や要請に従った数年を、「悲劇」という人もいれば「喜劇」という人もいる。ところが何があってもポジティブという人はいる。
 「やる気になれば人類はみんなで我慢できるということです。新型コロナでそれがわかった。いずれ地球環境の問題もみんなで解決できるでしょう」
 「万事は多面的に」と心がけてきたが、そんな「面」には気づかなかった。
 前向きさと明るさは、民族性なのか個人的資質なのかは知らないが、彼女は韓国の全羅南道出身で1991年から日本で暮らしている。 神保町の「チェッコリ」の店主キム・スンボクさんといえば、知る人ぞ知る。1990年に韓国に渡った私とはちょうど真逆な立場である。
 私が不在だった日本に彼女はいて、彼女が不在だった韓国に私はいた。二人でいるとお互いの30年余りの不足が補えるような、二人でやっと一人が完成するような、不思議な気持ちになる。私たちもまたディアスポラ的に生きてきたのだと、パンデミックの中で気付かされた。
 「近いから、いつでも帰れる」というのは大きな勘違いだった。瞬時にして国境は閉ざされ、渡航制限は延々と続いた。「水際対策」という言葉はなんとも島国的でグロテスクだったが、政治家やメディアは躊躇なく「その強化」を訴えていた。
 一方で韓国の側は国境を閉じることはしなかった。日本以上に厳しい監視と行動規制をしながらも、人々の移動を止めない。それが韓国政府のポリシーであり、背景には「誇りある700万人海外同胞」の存在があるのだと思う。キムさんと私の立場はそこが少し違う。
 韓国と日本では海外で暮らす同胞の存在感は大きく異なる。ほとんどの韓国人は外国に親戚や友人がいるし、韓国政府はその重要性をきちんと政策に盛り込んでいる。(日本のようにノーベル賞の時だけ突如として引っ張り出すのとは全く違う)。
 一方で700万人のコリアン・ディアスポラといっても、それが国家による強制だったり、生き残るための手段だった時代と、自分の意志で選択する時代とでは大きな違いがあるだろう。この連載の最初に中国朝鮮族出身の映画監督チャン・リュルを選んだのは、そのことを彼の作品は強く意識していると感じたからだ。福岡に行ったのは、彼に会うためだった。

釜山港発、博多行フェリー
 夜の10時過ぎに釜山港を出たニューかめりあ号は、遅めの夏休みを楽しむ人で適度ににぎやかだった。最近は飛行機の乗客も日本人より韓国人のほうが圧倒的に多いが、船もまた同じである。あちこちから韓国語の談笑が聞こえ、独特のカップラーメンの臭いが漂ってくる。ただ、私がいた11人部屋は日本人の方が少し多かった。
 女性の二人旅、親子旅、一人旅。二人旅は韓国組も日本組もお孫さんがいる年齢の方々だった。韓国組は平戸に行って温泉に入るといい、日本組もまた釜山でアカスリをしてきたと言っていた。日本人親子は大学生の娘さんの韓国語がお上手でビックリしたのだが、お母さんによればドラマを見ながらの独学だという。
 「私はヨン様世代なんですよ。娘もずっと一緒に韓国ドラマを見ていたから」
 「冬ソナブーム」は2004年、今の大学生がちょうど生まれた頃だ。つまり「生まれた時から韓国語のある暮らし」だったわけだ。かつてはこういうシーンでは、韓国の若者が日本語を話していたものだが、日韓航路の風景も大きく様変わりした。
 釜山から福岡はとても近く、午前3時過ぎには博多港に着いてしまう。船は沖合に停泊して、税関が開くのを待つ。同室の韓国組は前日の約束どおり5時に起きて朝風呂に出かけていった。船内に大浴場があるのもフェリーの良さだ。ロビーでは夜通しカード遊びをしていた風のフランス人グループと、飲み明かした風の韓国人グループが撤収の準備をしている。下船は7時からだ。

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