移動する人びと、刻まれた記憶

第2話 国境の島の梨畑①
――対馬に移住した韓さんの話(前半)

韓国から、世界へ。世界から、韓国へ。人が激しく移動する現代において、韓国の人びとはどのように生きてきたのか? 韓国史・世界史と交差する、さまざまな人びとの歴史を書く伊東順子さんの連載第2話は、対馬に移住した韓さんの話。今回は、その前半をお届けします。

対馬へ
 福岡でチャン・リュル監督に会い、数日を過ごしてから対馬に渡った。
 博多港には近隣の離島行きの船が出ており、対馬にも高速船とフェリーが出ている。壱岐を経由して厳原港まで2時間余り、空は青く海は穏やかで最高の船旅日和だ。
 対馬では対岸の釜山から来る友人と待ち合わせていた。友人とはこの連載の「はじめに」にも登場いただいたキム・スンボクさん。神保町の書店「チェッコリ」のオーナーである。もともとは釜山から一緒に船に乗る予定だったのが、私の福岡行きが急遽決まって別ルートになった。
 対馬への船は福岡と釜山の両方から出ている。釜山発は国際線なのだが、対馬の比田勝港まで1時間10分しかかからない。あらためて地図で見たら、たしかに対馬は日本よりも朝鮮半島の方に寄っていた。
 「だから対馬から釜山は見えても、九州は見えないのか……」
 誰もが知っているだろうことに、あらためて気づいた。
 長らく韓国で暮らしていて、対馬は「一番近い日本」だった。釜山から何度か買い物に出かけたこともある。そんな手軽な感覚は対馬の人たちも同じだと言っていた。なるほど、彼らにしてみれば、そっちのほうが近いのだ。地理上の位置関係だけは、過去も未来も変わらない。

対馬まで行けば朝鮮が見える
 対馬から釜山が見えるということを知ったのは、ずっとずっと前のことだ。学生時代に読んだ『対馬まで』(1979年、河出書房新社)という小説は、在日1世の著者・金達寿が帰れない故郷を一目見ようと、対馬まで行った体験をベースにしたものだった。そこに登場する「歴史家の李申紀」のモデルは考古学者の李進煕であり、彼もまた『海峡――ある在日史学者の半生』(2000年、青丘文化社)で、その時の対馬行きについて書いている。私にとって「一番近い日本」だった対馬は、彼らにとって「一番故郷に近い島」だった。
 「対馬まで行けば朝鮮が見える」(『対馬まで』)――その重みは私なんかとは差がありすぎて、並べて語れるようなものではないけれど、ただ彼らが故郷に帰れなかったことは、前回のチャン・リュル監督の言葉にあった「仕方がなく」なのか、「選択」だったのか? 
 金達寿はあえて自虐的な書き方を選んでいる。

 「――たといそれが私たちとしては切実なものであったにしても、考えてみればこれ以上バカらしいことはなかったし、見ようによってはこっけいでさえあった」(同書)

 すでに飛行機の直行便が日韓を結んでいた1970年代、「朝たてば朝鮮で昼飯だ」ということを知っていながら、彼らは故郷を一目見るために東京から飛行機と船を乗り継いで「対馬まで」行った。その事情と時代背景については、後で詳しく振り返る。というのは、今回、対馬に行ったのは、古くからの友人である「韓さん」に会って、そういった在日社会の歴史などを聞くことが目的の一つだったからだ。

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