移動する人びと、刻まれた記憶

第6話 徒手空拳のコリアン・ファイターたち①

鞍山の老武道家マスター・リー、そしてチェ・ベダル(大山倍達)のこと(前篇)

韓国史・世界史と交差する、さまざまな人びとの歴史を書く伊東順子さんの連載第6話の前篇です。アメリカに渡ったコリアン・ファイター、マスター・リーの数奇な人生と大山倍達について。ぜひお読みください。

コリアンタウンへ
 「アメリカに行ったら、コリアンタウンを訪ねてみてほしい」
 在日韓国人の友人に言われたのは、1980年代の終わりの年だった。
 生まれ育った街には在日コリアンが多かった。中学校のバスケ部で一緒だった友人の家には表札が2つあり、日本名と韓国名が並んでいた。狭い路地には白い服を着たお年寄りたちがいた。下着だと思っていたのは、モシ(麻)の夏用韓服だったのだろう。
 高校にあがると、ヤンチャな界隈では朝鮮学校に知り合いがいることが、ちょっとしたステイタスにもなっていた。
 「私のバックは朝高のジョンホだから」
 そんなことを自慢している女友だちもいた。大人たちの中には差別偏見丸出しの人間もいたけれど、私たちは少し別の空気の中にいた。映画『GO』(金城一紀原作、行定勲監督)や『パッチギ!』(松山猛原作、井筒和幸監督)みたいな甘酸っぱさ。ただし私を筆頭に意識はかなり低めだったから、周囲にはモヤモヤする人もいたと思う。
 意識低めにもかかわらず、ある日のこと、在日の友人の一人から不思議な手紙を見せられた。封筒に書かれた差出人の住所は朝鮮民主主義人民共和国。友人の父親宛の手紙だったが、友人は直感的に自分に関係があると思って、郵便受けから抜いてきたと言う。一人っ子だと思っていた友人は、その手紙で兄がいることを知った。
 そこから先には金鶴泳の『郷愁は終り、そしてわれらは』(1983年、新潮社)のような展開が待っていたのだが、それはともかく、その友人が米国行きの背中を押してくれた。
 「在米コリアンはコメリカンというらしい。どんな雰囲気なのか、見てきてほしい」  OK、OK、お安い御用。私が代わりに見てくるよ。

 「世界で最も危険な街に生きる在米コリアン」
 初めてのコリアンタウンはシカゴ近郊、地下鉄キンボール駅周辺に広がるその街は、全米のコリアンタウンの中でもかなり古い部類だと聞いた。まるで西部劇に出てくるような、軒の低い店が並ぶ殺風景な街には、ハングル文字の看板が並んでいた。
 「とりあえずランチでも」と、そのうちの一軒に入った。東洋系の店員が無言で差し出したメニューはハングルと英語交じり、その中の「ヌードル」と書かれたものを指さした。
 その時の私は韓国留学前で、韓国料理の知識もほとんどなかった。だから、店員がヌードルの入った金属製の器とともに、大きなハサミを目の前に振りかざした時には、息が止まりそうになった。彼女は何か韓国語で言ったようだったが、私は瞬間的に「ノー! ノー!」と叫んでいた。
 その頃の米国は今よりもはるかに治安が悪く、シカゴの地下鉄には一両ごとに犬を連れた警官が乗っているほどだった。銃を突きつけられた時の命乞いにと、ポケットには100ドル紙幣を3枚入れていた時代だ。
 ところが、次のお客さんの仕草を見て、私はハサミの意味を理解した。ハンチングをかぶった年配の東洋人男性は、そのハサミでヌードルを食べやすく切り分けてもらい、そこにマスタードをたっぷりかけて、美味しそうに食べていた。私もさっそく真似してみた。ひんやりとしたスープはまさに五臓六腑に沁みわたり、ケチャップとチーズでベトベトになった内臓をすっきり洗ってくれた。
 やはり韓国人はすごい。この時から私は冷麺とコリアンタウンの虜になった。くだんの友人には、その街で発見した『コメリカン』という雑誌をお土産に購入した。
 「おおお、コメリカン! こんな雑誌があるんだね」
 友人がとても喜んでくれたので、私も大満足だった。
 それからしばらくして、私は韓国に留学するのだが、その後もコリアンタウンへの熱は冷めずに、訪米のたびに各地方のコリアンタウンを訪ねた。それらの多くは「治安が悪い」というエリアにあり、24時間営業のスーパーマーケットでは、防弾ガラスの中で老婆がタバコを売っていた。
 『コリアン世界の旅』(講談社、1997年)の著者である野村進は、当時ニューヨークのハーレムやロスアンゼルスのサウス・セントラル地区で暮らす韓国人を、「世界で最も危険な街に生きる在米コリアン」というタイトルで形容していたけど、それは決して誇張ではなかったと思う。