(第3回の前半はこちら⇒https://www.webchikuma.jp/articles/-/3339)
『カレイスキー――旧ソ連の高麗人』
バラバラとなっていたパズルのピースが埋まっていく。
四半世紀ぶりに見た映画『伽倻子のために』の中には、忘れていたシーンも多かった。その一つが「1945年樺太(サハリン)」というタイトルの回想シーンで、幼い主人公が海岸を警備するロシア兵に向かって「カレイスキー、ハラショー?」(朝鮮人OK?)と叫ぶ場面だ。ロシア兵は「ヤポンスキー、ホイニャ」(日本人は駄目)と答える。
サハリンを占領したソ連軍にとって、カレイスキーとヤポンスキーの区別が重要だったのは当然である。李恢成の『私のサハリン』(1975年、講談社)には「私はカレンスキーだからと主張した」という一文もあった。
ところがそんなことをすっかり忘れていた私は、1990年代初頭の韓国で「カレイスキー」という言葉に初めて出会ったと思い込み、韓国の人々と同じく何か宝物を発見したかのような気持ちになっていた。カレイスキーは「自らを『高麗人』(コリョサラム)と呼ぶ」と紹介されていたからである。
朝鮮人でも、韓国人でもない、高麗人!
「カレイスキー」は「コリア」と同じく、その語源は10世紀に朝鮮半島を統一した「高麗」にある。ところが英語の「コリアン」は場合によって、韓国人(ハングッサラム)と朝鮮人(チョソンサラム)という現在の国名で分けて使われる。でも「高麗人」という呼称は政治やイデオロギーによる分断を超越した呼称のように新鮮だった。
過去から未来を仰ぎ見るようなエキゾチックな響き。それまで国交のなかったソ連の地で、「高麗人」という同胞たちが暮らしている事実に、韓国の人々は民族的ロマンのようなものを感じていた。
李恢成が1970年代に書いたサハリンの物語には「高麗人」という単語は登場していなかった。韓国で始めてカレイスキーの全体像をまとめた労作、『カレイスキー――旧ソ連の高麗人』(鄭棟柱著・高賛侑訳、1998年、東方出版)には、旧ソ連には3種類のカレイスキーがいると書かれている。
「第一は中央アジア地域を根拠地とする高麗人、第二はサハリンの朝鮮人、第三は中央アジアから再び沿海州に戻った高麗人である」
サハリンのカレイスキーは「朝鮮人」とある。
コリョサラム(高麗人)とはどういう人々か
サハリンのカレイスキーは歴史が新しく、1910年以降である。日本による「併合」で大韓帝国は滅び、植民地下で彼らは「朝鮮人」と呼ばれた。それに比べると「高麗人」の歴史は古く、さらに100年ほど前に遡る。
朝鮮半島北部からロシア沿海州に人々が流れはじめたのは、1800年代初頭のことだという。その頃はまだ無国籍地帯であった地域に、現在の国境が定められたのは1860年。李朝政府は越境を禁止したものの、移住の流れは止まらなかった。ロシア側も荒れ地を開墾してくれる勤勉な移住者をむしろ歓迎していた。そして1910年に朝鮮半島で日本の植民地支配が始まると、そこから押し出されるように移住者は一気に増加していった。
その中にはレーニンの革命(1917年)に参加した人もいたし、コルホーズ(ソ連の集団農場)で模範的な働きを見せる人々もいた。しばらくして高麗共産党も結成されている。高麗人はソヴィエトの社会主義建設にも貢献しながら、同時に沿海州は抗日独立運動の海外拠点の一つともなっていた。
ところが1937年9月、スターリンは突如として沿海州にいた17~18万人の高麗人に対して、中央アジアへの強制移住を命じる。飢えと寒さによって4人に1人が亡くなったという過酷な移住が、「在外同胞最大の悲劇」とも言われることはすでに書いた。強制移住の理由は「日本軍の防諜活動に利用される」等々。「スパイの疑念」は粛清などでも用いられた恐怖政治の常套句であり、強制移住はその後にチェチェン人やイングーシ人、ヴォルガ・ドイツ人など他の少数民族でも行われた。
「旧ソ連の高麗人」については、日本でも1990年代以降に様々な著作が出ている。なかでも『ノレ・ノスタルギーヤ――歌の記憶、荒野への旅』(2003年、岩波書店)や『安住しない私たちの文化――東アジア流浪』(2002年、晶文社)などの姜信子による一連の著作が素晴らしい。著者は自分の足でシベリアや中央アジアを歩き、そこで暮らす人々と言葉を交わし、そして彼らの歌を聞いた。
李恢成は1981年にサハリンを訪問して、そこで出会った人々のついて『サハリンへの旅』(1983年、講談社)を書いた。それから20年、「在日コリアン作家」(この呼び方が正しいかどうかはわからない)は、いつも日本人の視界を広げてくれる。