些事にこだわり

「本は売らないとたまるね」という中村光夫の名言、もしくは迷言の真実味について、実地に確かめてみるとどうなるか

蓮實重彥さんの連載時評「些事にこだわり」第19回を「ちくま」5月号より転載します。たしかに家にあるはずの本が見当たらない! というのは読書人あるあるだと想いますが、蓮實さんでもそうなのかと思うと安心、というか人間の整理能力や認知能力には限界があるのだなと素直に受け止められます。ご覧下さい。

 いつのことだったか定かな記憶はないが、昭和と呼ばれた一時期の戦中および戦後にかけて文芸批評の重鎮だった中村光夫の「名言」もしくは「迷言」として、「本は売らないとたまるね」というものがあったと思う。ことによると「たまるね」ではなく「増えるね」だったかもしれぬが、実際、書物というものは、とりわけこの文章をいま書き綴りつつある者のように映画や文学の批評にかかわる年輩者のもとに、しばしば著者自身から、あるいは出版社からの寄贈によってたえず「増え」つづけ、その当然の結果として「本」が際限もなく「たまって」しまい、それをおしとどめる術はほぼ見あたらぬ。
 例えば、新刊の書物や雑誌類についていうなら、おおまかなところ一日に平均三冊から五冊はポストに入っているので、それをごく単純に合計すると、一年にほぼ千冊から千五百冊ほどの印刷物が着実に「増えて」いくことになり、それを空間的に限定された拙宅の書庫におさめることなど、どう見積もっても不可能である。だから、その大半は、近くの古書店主に来て貰って処分することにしているが、何かしらこだわりがあるものなど寝汚く手放さずにおくので、いまや書斎――といっても食堂とサロンの兼用なのだが――の書庫はほとんど書庫として機能していない。つまり、それぞれの棚に書物が二重に置かれているので、あらゆるものが目に入るとは限らないのである。しかも、いまではサイトでの購入がしごく容易になっているので、思わず買ってしまう書物も際限なく増え続けている。それが不愉快なら電子図書にせよという人もいないではないが、拙宅の書庫を空間的に占有することのないものなど、書籍とは呼ばぬこととしている。実際、部分的に存在しないわけではないが、拙宅の書棚をみたしている十巻本の『河野多惠子全集』(新潮社)の電子図書など聞いたこともない。
 絶対に売りたくない作家の、しかもいますぐに読むあてのない書物の幾つかは納戸の棚に置いてあるはずだが、その納戸そのものが、なぜか処分できずにいる映画のDVDをどっさり収めた決して軽くはない紙袋で溢れかえって足の踏み場もない。だから、納戸にあることだけは分かっていながら、それがどこにあるのかはそのつど厄介な体勢で足を踏みいれぬ限りは不明というほかはなく、もはや、それは書棚として機能していないといわざるをえぬ。だから、文字通り、「本は売らないとたまる」しかなく、その「たまった」ものは、自宅に存在しないも同然という事態もしばしば起こっている。
 では、存在しないも同然な書物を、なぜ、処分せずにおくのか。その理由だけは、自分でもよく分からないが。所有欲でないことだけは確かである、あるいは、売り払うことへの故のない逡巡だろうか。例えば、ついせんだって、フーコーをめぐるみずからの英語のインタビューを日本語に移しかえるにあたって『ミシェル・フーコー思考集成』(筑摩書房)の日本語訳を引用しようとしたところ、その十冊本が書棚にまったく見あたらない。そこで、それぞれの棚の奥の部分に目を送って何とか探し当てたのだが、こんどは身近に置いてあるはずのロラン・バルトの『新・批評的エッセー――構造からテクストへ』(みすず書房)がどうしても見あたらない。雑誌掲載の校正時だったので急がねばならず、ごく親しい女友だちから至急に送ってもらって何とか処理したのだが、いざゲラにその訳文を書き入れようとして仕事机に向かうと、それが嘘のように目の前に置かれていたりする。それなど、八十八歳という年齢故の惚けの徴候だといわれればそれまでだが、それもこれも「売らないとたまる」自宅の書籍は、書籍として機能しないのである。ところが、奇妙なことに、ジェルジ・ルカーチの『小説の理論』(ちくま学芸文庫)だけは一目で見つかったのだから、わけがわからない。
 寄贈されるのは、日本の書物とは限らない。例えば、ごく親しい外国の友人たちが来日する場合、そのほとんどが書物――それも、おしなべて厚くて重い――を土産に持参してくれる。例えば、フローベール研究の中心人物というべきジャック・ネフが昨年についでこの春に来日したときになど、たんに厚くて重いのみならず、『ボヴァリー夫人』をめぐる気のきいた写真入りの巨大な判型のエッセイ・アルバムを持参してくれた。そうした場合、それをなるべく人目につきやすい場においておきたいのだが、そうすると、日本の書籍数冊が人目から遠ざけられることになる。
 外国の友人や知人がその著作を送ってくれる場合でも、例えば、この五月に来日して東京藝大で講義をする予定のベルナール・エイゼンシッツの場合など、すでに翻訳が存在している『ニコラス・レイ――ある反逆者の肖像』(キネマ旬報社)が七〇〇頁を超えているように、その新刊の『ダグラス・サーク論』Douglas Sirk, né Detlef Sierckもまた、厚さも重さも半端なものでない。さらには、つい最近刊行された拙著『監督 小津安二郎』の英語版に素晴らしいコメントを寄せてくれた批評家のエイドリアン・マーチンもまた、翻訳が待たれるきわめて重要なその前著Mise en scène and Film Styleに続いて、新著Mysteries of Cinema – Reflections on Film Theory, History and Culture 1982-2016をサイン入りで送ってくれたのだが、これもまた結構の重さと厚さを誇っており、それらを書庫に並べると、日本の書籍の四、五冊分ほどの空間を占拠してしまう。
 また、韓国から送られてくる書物のほとんども、厚くて重い。この度、わたくし自身の『ジョン・フォード論』(文藝春秋)と『凡庸な芸術家の肖像――マクシム・デュ・カン論』(講談社文芸文庫)の韓国語訳がほぼ同時に刊行されたのだが、その後者の原著など、文庫で上下二巻となる長い書物の韓国語訳であるだけに一二〇〇頁近くもあり、その厚さも優に五センチを超える。訳者の方には深い謝意を伝えたく思うが、それらは、書架に収められる余裕もないまま、いずれも、来客用の丸テーブルの上に置かれている。やはり、「本は売らないとたまる」ばかりなのである。せめて、日本語による本のみだりな寄贈だけは避けて頂きたいと思いはしても、かりにそんなことを口走ると、とりわけ執着のある書き手からのものだけが滞り、そうでない作家や批評家たちからの書物ばかりが増えそうだという確かな予感があるので、ここにはあえて書かずにおく。

「売らないとたまる」のは、書物に限られているわけでない。既知であったり未知であったりする映画作家その人から、あるいは外国映画の場合その配給にかかわる業者から、DVDやブルーレイが一日に平均ほぼ三枚は送られてくる。だから、見るいとまのないディスクがテレビの受像器の前にうずたかく置かれている始末だ。
 正直に告白するなら、今年になって見る余裕があったのはたった三本でしかなく、そのうちの一本がヴィクトル・エリセ監督の『瞳をとじて』(二〇二三)であり、いま一本が劇場でのわたくし自身のトークに必要だったドン・シーゲル監督、エルビス・プレスリー主演の知られざる傑作『燃える平原児』(一九六〇)だったことを隠すつもりはないが、残りの一本についてはあえて言わずにおく。
 そう、いまこの隔月連載を難儀しながら書きつつあるこの後期高齢者は思いのほか多忙なのであり、そのテクストの執筆にはゲラの加筆修正などを含めるとまるまる三日はとられる。であるが故に、未知の映画作家の方からのディスクの送付だけは、できれば避けていただきたいとここで宣言せざるをえない。DVDも、書物と同様、「売らないと増える」ものだからである。もっとも、それまでそのお名前さえ聞いたこともなかった女性監督である小森はるかということのほか優れた作家名をしかと記憶にとどめたのは、それまでは未知だった彼女がふと送って下さった『The Place Named』(二〇一二)のDVDだったし、その後に傑作というほかない『息の跡』(二〇一五)を撮られることになるのだから、未知の方であろうと、DVDの送付を禁じるのは愚かきわまりないことだとは承知している。それ故、かりに送付して下さる場合は、やみくもに僥倖に賭けよとのみ書いておくこととする。

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