第4話前半はこちら↓
https://www.webchikuma.jp/articles/-/3380
パンデミック下のチャイナタウン
2022年8月、仁川のチャイナタウンを訪ねた。新型コロナによるパンデミックから2年半、やっと入国制限も緩和された頃だった。過酷だった入国時の隔離義務はなくなったものの、ワクチン接種や陰性証明、マスク着用義務などが残っており、まだ観光客が気楽に行き来できるほどではなかった。仁川駅前もチャイナタウンも人影はまばらで、多くの店が門を閉ざしたまま。すでに活気を取り戻していた横浜の中華街とは対照的だった。
当初、新型コロナは中国発と言われたことで、世界中のチャイナタウンが大きな打撃を受けた。横浜の場合はダイヤモンドプリンセス号内の集団感染も加わり、隣接する中華街の被害は甚大だった。
「もう中華街の店は4割が閉店すると言っています。特に老華僑の店は年齢のこともあり、もうやめたいって。うちは常連さんが来てくれるから、もう少し頑張るつもりですが」
その頃、中華街の訪ねたお店で聞いた話だ。
一時期はひどい風評被害に苦しめられた横浜中華街だったが、応援する人も多かった。しばらくして善隣門に「#がんばれ中華街」の横断幕が掲げられた。スマホに収められた当時の写真を見ると今でもウルッとくる。
横浜中華街の善隣門は1955年に建てられた。海外チャイナタウンの中では「最古の牌楼」である。聘珍樓の社長など地元華僑のリーダーたちが寄付金集めに奔走したという。牌楼に刻まれた「親仁善隣」の言葉の通りに、横浜中華街は隣人との友好を基盤に発展してきて、それがパンデミックを乗り切る力となった。
パンデミック下、各国で飲食店は厳しい営業制限を求められたが、韓国では日本でなされたような休業補償もなかった。多くの店が廃業に追い込まれたが、応援キャンペーンなども行われず、両国における飲食業の立ち位置の差を感じた。
中国人町はどこに?
閑散とした仁川チャイナタウンを歩きながら、あの夏のことを思い出していた。チャイナタウンを探した夏、もう20年以上も前のことだ。まだ赤い牌楼もなく、歩いても、歩いても、チャイナタウンは見つからなかった。
「チャイナタウンはどこですか? 中国人町はどこにあるんですか?」
「ここだよ」
「え? ここですか?」
そこはたしかに地図に中国人町と印された場所だった。そう言われて周囲を見渡すと、赤い柱に灯籠をつけた中華料理店が一軒、目に飛び込んできた。その向かいに漢字の紙を貼った引き戸のある雑貨屋が一軒、よく見ると中華料理店がもう一軒あった。でもそれだけだった。少しくたびれたような住宅地、遠くに海が見えた。
横浜中華街のような華やかな観光地でなくても、北米の大都市にあるような生活感あふれる街や、異文化の香辛料が染み付いたような東南アジアの通りを想像していた。地面に散乱した白菜の切れ端や、燃え盛る炎の中で振られる鉄鍋や、路上で寝そべる油で汚れた犬。物も人も大声をあげながら動き続ける、想像していたチャイナタウンはどこにもなかった。
「みんな出て行ってしまったんだよ」
怒りを吐き捨てるように、この街の歴史を語ってくれたのは、豊美食堂の韓さんだった。
李承晩政府の華僑迫害
最初は気づかなかったのだけど、周囲には古い中国式の建物が数棟残っており、豊美食堂はその一角にあった。1945年生まれの韓さんは、祖父の時代に仁川にやってきた在韓華僑3世だった。祖父は貿易商で、日本の植民地時代から「同順東」という会社を経営していた。韓さんが生まれた年に日本は敗北し、韓国は米軍占領下となったが、華僑は戦勝国民として扱われて、商売も大きく発展した。
ところが1948年に大韓民国が成立すると、たちまち華僑の経済活動は制限されることになる。李承晩政府は「倉庫封鎖令」や「為替取引規制」などによって、華僑を貿易業から締め出そうとした。その渦中に朝鮮戦争が勃発する。
韓さん一家は済州で避難生活を送った後、再び仁川に戻ってきた。韓さんのお父さんはパンや饅頭を作って、港の船乗りたちに売った。それが「豊美食堂」の始まりだった。
「父はもともと料理人ではなかったけど、生きるためには仕方なかった。それでもやるからには一生懸命で、チャジャンミョン(炸醬麺)の春醬も自分で作っていた」
貿易業を失った華僑が頼ったのは故郷の味だった。山東省の郷土料理を韓国風にアレンジしたチャジャンミョンは大ヒットし、華僑社会は再び活気を取り戻した。華僑の中にはお金を貯めて大型店舗を経営する者も現れ、チャイナタウンは往時の繁栄を取り戻していくかに見えた。ところが李承晩に続く朴正熙政権下で、華僑迫害はさらにエスカレートする。