ちくま新書

厄介なあのひとにも事情がある
鈴木祐丞『キェルケゴール―生の苦悩に向き合う哲学』書評

『死に至る病』や『不安の概念』などの著作で知られ、いまなお哲学史にその名を刻むセーレン・キェルケゴール。その代表作のみならず、残された膨大な日記や手記を掘り起こし、人間キェルケゴールの実像に迫る、鈴木祐丞さんの新著『キェルケゴール―生の苦悩に向き合う哲学』。ニーチェやショーペンハウアーを専門とする哲学研究者・梅田孝太さんによる書評を、『ちくま』2月号より転載します。

 わたしたちの人生には、強烈な個性をもった者が稀に現れる。常識はずれで、厄介で、話がかみ合わないところがある「異質」なひとだ。わたしたちは大抵、目を伏せてとりあわないようにし、「普通」の人生に安住する。そのときわたしたちは、自らの個性をも抑圧してしまっているのかもしれない。
 本書が描き出すキェルケゴールは、まさに「異質」な存在である。現代日本人にとってだけでなく、同時代のデンマークの人びとにとってもそうだったことが、本書で引用される証言者たちの声からもよくわかる。だが、著者はユーモアと優しさをもってその実像に迫る。キェルケゴールは、思想家でも熱心な宗教家でもなく――「神に仕えるスパイ」として生きることにした、一人の弱く不器用な人物なのだという。本書は、『死に至る病』の新訳や日記の編訳を手がけてきた著者が、堅実な研究成果をもとにキェルケゴールのありのままの姿を描き出した優れた伝記であり、実存哲学の傑出した入門書でもある。
 現代のわたしたちにとって、キリスト者キェルケゴールの伝記を読む意味はどこにあるのだろうか。彼はあまりに遠い存在に思える。だが、そう感じてしまうのは、現代日本人の多くが自らを「無宗教」と認識し、それが「普通」だと捉えているためなのではないだろうか。実際には、特定の教団に属さないだけで、初詣やお盆、クリスマスなどの宗教行事に好んで参加するひとは少なくない。「無宗教」とうそぶきながら、実は多くのひとが一見そうとは見えない仕方で宗教心を持ちあわせているのかもしれない。奇妙な話である。
 キェルケゴールはたしかに「異質」な他者だ。だが、彼の境遇や心情を詳しく知るほどに、わたしたち自身のあり方も決して「普通」ではなく、多様な生き方の一つだということがわかる。さらに、厄介者キェルケゴールの伝記を読み、その内面世界を理解しようとすることは、わたしたちがこれから出逢う厄介な他者に対して、歓待とまではいかないにせよ、その内面に何があるのかを考えてみるきっかけになるかもしれない。それはすなわち、わたしたち自身が自らの内面と向き合っていく契機でもある。
 実存という言葉の原義である「外に立つこと」に照らして考えるなら、キェルケゴールは外なるひととしての自分、他者から見える自分のあり方を疎かにしなかった。リアルな現実にかかわろうとし、他者のために行動し、社会を改善しようとした。内面の苦しみにとらわれがちな現代人にとって、自己を超えて外に出ること――同じように苦しむ他者のために、自分を賭して奉仕すること――その重要性をキェルケゴールは伝えてくれているように思う。ただし、それが本当に他者のためなのか、外に出ているつもりで、実は内面深く潜っていっているのではないか、このことは繰り返し問われなければならないだろう。他者はどこまでいっても他者であり、その真意はブラックボックスであり続ける。だからこそ、わたしたちの自己研鑽の営みは無限に続くものであらざるをえない。
 内面と向き合い、他者に働きかけていくことで、わたしたちは個性を獲得する。さらに偉大な個性の持ち主は、歴史の内に自らの実存を位置づけることで大きな苦しみを引き受け、その苦しみと向き合うべく行動し、自らの物語を歴史に刻んでいく。「歴史とは何か」、「歴史が記すべき個とは何か」――こうした問いが本書の遠景にある。ヘーゲル以降のヨーロッパ思想において、キェルケゴールのみならず、ニーチェや生の哲学者たち、新カント派の哲学者たちを巻き込んで大きな議論の磁場を形成した、ビッグ・クエスチョンの一つである。
 他にも、罪と赦し、ソクラテスという手引き、仮名と実名の区別など、本書には思考を刺激する魅力的な観念が豊かに鏤められている。本書の読者は、そこから問いを立て、歴史に身を浸す思索の冒険に駆り立てられることだろう。この意味で本書は実存哲学の最良の入門書の一つだといえる。
 

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