迷惑をかけあう社会に向けて

ケアってなんだろう?(後編) 

『ケアしケアされ、生きていく』の著者・竹端寛さんと、哲学者・永井玲衣さんに、ケアについて、また対話の大切さについて対談していただきました。ケアって福祉のことでしょ、自分には関係ないと(特に若い人は)思うだろうけれども、もっともっと身近で大事な概念なのだ。いつだって私たちはケアをする立場でもあり、される立場でもあるのだ。

24時間戦う、のか?

竹端 永井さんがやっている「Choose Life Project」(テレビの報道番組や映画、ドキュメンタリーの制作をしている有志が、選挙への関心を高め、投票率を上げることを主な目的として2016年から始めた映像プロジェクト)も、まさに社会を変えるためのメディアとして活動してるわけですよね。でも、社会は変わらずに昭和98年で、「24時間戦えますか」の世界が続いている。今の若い人は知らないと思いますが、リゲインという栄養ドリンクのテレビCMに「24時間戦えますか」っていうフレーズがあったんです。1988年です。 “ビジネスマン、ビジネスマン、ジャパニーズビジネスマン”ってずっと唱えてる。日本人はそれぐらい働かないといけないという時代です。今、令和になって変わったかというと、確かにワークライフバランスが大事だと言われたり、共働きが増えたりはしていますが、会社である程度昇進しようと思ったら、ものすごく働かないといけない。働いている人もしんどいと言ってるのに、いまだにそれが残存してる。それがわからない。

永井 私、「哲学対話」という場を開いてるんですけど、そこでは、参加者から、問いを出してもらってそれについて話すんです。いかにも哲学っぽい「自由とは何か」みたいなかっこいい問いもありますが、私は手のひらサイズの問いというのをすごく大事にしていて。

竹端 手のひらサイズ?

永井 等身大の、人肌のあるような問いっていうのをお聞きするんです。そこで出てくる言葉って、なんで二日酔いになると分かっているのに飲むんだろうとか、エレベーターの中ってなんであんなに気まずいんだろうとか、髪の毛は生えてる時は平気なのに、抜けるとなんで急に気持ち悪いんだろうとか、そういう手触りのある問いが出てくるんです。今、ひとつ目の、なんで二日酔いになるとわかってるのに……という問いは、「わかっちゃいるけど、やめられない」っていう、昭和の曲なんですよね。竹端さんのお話を聞いていて、今の社会への認識はすごく進んでいて、全員がいろいろわかっているんですよね。で、それはいろんなイシューに当てはまって、まず、戦争もそうだし、気候危機もそうだし、労働問題も、資本主義も、ケアにまつわることも、「わかっちゃいるけど、やめられない」。私、朝日新聞の「問いでつながる」という連載で、迷惑とは何かという回に、昭和のCMで「風邪は、社会の迷惑です」というのがあったと書いたんです。風邪が社会の迷惑! とテレビで普通に放映されていて、さすがにそれは、変じゃないかと今の私たちの価値観としては感じるんだけど、それでも誰も手を止められない。そういう意味では、より悪質になってるんじゃないかと思うんです。認識は進んでいると希望的に見ることはできるんだけれども、それが今度は陳腐化、形骸化していって、大変だよねとか、地球環境やばいよねって言いながら冷房の温度下げちゃうみたいな時代に入りかけてるんじゃないか、と。

我慢して迷惑かけない人になっていくのがいい、のか?

竹端 今日、朝の授業でジェンダー平等について話をした時に、皆さんだったら社会問題についてモヤモヤした時に、声を上げますか、それとも我慢しますかって聞いたら、大半の子が、自分が直接被害を受けるのであれば声を出すかもしれないけど、大概の場合、我慢するって答えたんです。

永井 我慢ですか……。
竹端 それは、やっぱり言っても仕方がないとか、自分一人が言ったところで、みたいなことなんです。これと、「他人に迷惑をかけてはいけない」をかけ合わせると、ものすごく世間にとって都合のいい子が出来上がるなって僕は思います。大学の教員からすると、文句も言わずに授業を聞いてくれるいい子たちだから楽。そういう子は、企業にも簡単に就職できるし。社会の主流の価値観にそれはおかしい! と言わないし、社会に迷惑をかけてはいけないから、何か違うと思っても、主張せずに我慢する。自発的隷従ですね。要は自分の方から奴隷のように飼いならされていく。そのようにこの社会は巧妙に仕組まれているような気がして。昭和は終わったけど、30年かけて我々を飼いならすことに大成功したんじゃないかと思うんです。本にも書きましたが、コロナ前はよく海外出張していて、電車が来なかったり、スリに遭ったり、いろいろありました。日本に帰ってくると電車はきっかり時間通りに動くし、宅配も送った翌日には届く。物事全てがスムーズに進む気持ちいい社会です。だけど、そのために、働いてる人が歯車になって歯を食いしばって頑張ってる。

何が言いたいかというと、社会はスムーズに進むかもしれない。でも、そのために、社会に迷惑かけないようにしんどくても休まず風邪薬を飲んで、無理してでも頑張れっていう世界です。それは嫌だなと思うし、さっきの話に戻ると、魂に良くないと思う。「他人に迷惑をかけない」ことって、「自分の魂に迷惑をかけ続けること」なんじゃないかと思います。まずは自分の魂をケアすること、そこが大事なんですよね。

ケア的な社会運動

永井 ケアっていうと、ほんのり優しいみたいなイメージを持たれがちですけど、そういうことじゃないんですよね。ケアは、自分の魂を社会や政治の問題のすごく大きな枠組みとして見ないといけない言葉なんですよね。なのに、泡風呂入って、アロマ焚(た)いてリラックスして、明日から死ぬほど働きましょうっていう小さなセルフケアでとらえられてる一面がある。ケアを本来の、社会の大きな構造の中で見ると、我慢するのではなく、声を上げていかないと……ということになります。これまでの社会運動で声を上げてきた人たちにすごく尊敬の念を抱いてるんですけども、でも同時に、その抵抗の運動もまた非常にマッチョだったということも言及しないといけない。マッチョではない、優しい、穏やかなケア的な社会運動ってどういうものなんだろうっていう問いがここで生まれるんですが……。

竹端 僕は10代から社会運動に興味をもったり、コミットしてたりしていて思うのは、「反権力」の運動の中にも「権力性」があるということです。やっぱりそこは鋭く問わなければいけなくて、シールズを取り込んでいった団塊の世代の文化人に対する怒りとか。権力奪取をしたい人の権力欲がめちゃくちゃあると思っていて。反権力というのは何のための反権力かという時に、自分たちの主張を強化する権力を取りたいための、手段としての「反権力」なのか、それともよりよい世界を作るための「反権力」なのかで、全然違うような気がするんです。それが優しい社会運動なのかどうかわからないけど、僕の中で、少なくとも、マッチョな社会運動は、権力志向性というとこでハラスメント含め危うい部分があったんじゃないかと。僕は今48歳で、永井さんたちのような社会運動2.0とマッチョな社会運動1.0との間ぐらいにいるので、「社会のため、いいことするためには歯を食いしばって耐えるのも仕方ない」みたいなことが言われた、昭和の論理も見てます。この昭和の論理は、あまりにも不健全だから少なくとも社会運動的には根絶したいです。

ケアの世界では、ミクロポリティクス、一人一人の関係性の中の政治と、マクロポリティクス、小文字のp(politics)と大文字のP(Politics)っていう言い方をするんですけども、大文字のPに対して、反権力だ、今の首相のやり方はどうなんだって言っている人が、 身近な仲間の中で、男尊女卑であったり、女性に対してセクハラしたりとかが許されてしまってる。いくら理念や主義主張の世界(大文字のP)で素晴らしいことを言ってても身近な人間関係(つまりは小文字p)の実践の中でハラスメントしていたら、言行不一致だと思う。なので僕は、「世界平和の前の、家庭の平和」って言ってるんですよ。社会運動1.0のおじさん達には非常に評判悪いんですが。

永井 え、なぜですか?

竹端  社会運動1.0の人たちは、「家庭の平和を犠牲にして世界の平和を目指している」ことが美談のように語られるから……。優しい社会運動に繋がるかどうかわからないけど、身近な世界(小文字のp)の平和があった上で、より大きな世界(大文字のP)の平和を構築しなかったら、筋が通らないと思うんです。この2冊の本が書けたのは、6歳の子の世界を絶対基準にして書けたからです。僕は、子どもが生まれるまでめちゃくちゃ仕事人間で。

永井 でもいくら福祉のことを語っていても家族関係をおろそかにしてたら嘘じゃないかと思っていたんですね。

竹端 だから、子どもが生まれて、引き裂かれたんです。だって、子どものことを大事にしようと思ったら、出張できない。月4回も出張してた人間が、子どもが生まれた時に、それしたらすぐ離婚だよって妻に言われて、全く出張しなくなったんです。それはまさにそれまで自分が内心勝ち誇ってきた「働き蜂の私」というアイデンティティの崩壊です。でも、その時に、僕がここでちゃんと子どものケアをしなかったら、家庭の平和をないがしろにして、世界平和を言う社会運動1.0系のおじさんと一緒のことだな、と気づいたんです。それを子どもが気づかせてくれたんです。まずは、自分や身近な人のケアをしていかないことには広がらないんですよね。

2024年3月18日更新

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竹端 寛(たけばた ひろし)

竹端 寛

1975年京都市生まれ。兵庫県立大学環境人間学部准教授。専門は福祉社会学、社会福祉学。主著は『「当たり前」をひっくり返す――バザーリア・ニィリエ・フレイレが奏でた「革命」』、『権利擁護が支援を変える――セルフアドボカシーから虐待防止まで』(共に現代書館)、『枠組み外しの旅――「個性化」が変える福祉社会』(青灯社)、『家族は他人、じゃあどうする?』(現代書館)など。

永井 玲衣(ながい・れい)

永井 玲衣

哲学研究と並行して、さまざまな場所で哲学対話を幅広く行っている。エッセイの連載、坂本龍一・Gotch主催のムーブメントD2021などでも活動。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)。詩と将棋と念入りな散歩が好き。

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