ちくま文庫

ぜんぶ加納愛子のせい
加納愛子『イルカも泳ぐわい。』書評

Aマッソ加納さんの初エッセイ集『イルカも泳ぐわい。』が文庫になりました。小説家の古谷田奈月さんが本書を読んでみたところ、「ぜんぶ加納愛子のせいだ」という結論に達したそうで――!?
PR誌「ちくま」6月号から転載します。

 笑いながらページをめくり、ああ楽しかった、と読み終えたのに、一拍置いたらわからなくなった。「待って、私いま何読んだ?」
 何度も共感したはずなのだ。それなのに、”わからなさ”がおもに残る。お笑い芸人のエッセイ集だと軽い気持ちで開いた本が、実のところ奇書だった――と、先にオチを言うとそういうことになる。

 それでも何度か読み返した甲斐あって、謎の出どころはいくらかわかった。この著者、自らテーマらしきものを提示しておきながら、ろくにそのテーマと向き合わないのである。
 たとえばあるエピソードでは、映画のメイキング映像についての話題が出てくる。「ワクワクする」というメイキング肯定派、「興醒めする」という否定派、対立する二つの意見がまず紹介されるので、著者自身はどう考えるかという話になるのだろうと読者は当然予想する。ところが実際に語られるのは、昔ディズニーアニメのメイキング映画を見たんだけどそれがめっちゃ楽しかった、みたいなことなのだ。
 映画の主役であるベンチリーさん、ベンチリーさんに振り回されるハンフリー君、彼らのおかげで見ることができた舞台裏の様子については生き生きと語られるのだが、メイキングというのもつまりなかなかいいものだ、とまとめることはなく、「いつかすごい単独ライブを作ったら、その準備中にふらっとベンチリーさんが覗きに来てくれないかなぁ」などと言っている。「(そのときは)こっそりハンフリー君に居場所をチクってやろう」
 いやいや、メイキングの是非を問わんかい!――と読んでいるときには思えないのが、本書の奇書たるゆえんである。「そうやなwチクったろww」などとノッておいて、あとでもぞもぞすることになる。これは、話のキモはここだと勝手に設定しているこちらのせいなのか、変なところにキモを置く加納愛子のせいなのか。疑問形式で書いてみたが、実際議論の余地はない。加納愛子のせいである。

 身体化しているとしか思えないこのズレた視点は、他者とのズレを見つけるのにも一役買っている。友達が書いた小さな「ぅ」の字にその子の個性を見出したり、兄という異性が発した何気ない一言に「あ、言ったことない言葉」と気が付いたり。この人と私は、違っている――これらの発見が同時にその差異を祝福しているようにも見えるのは、常に笑いとともに語られるからだろう。重くない、でも確かな個の肯定だ。
 お笑い芸人というのは、人を笑わせるのが仕事である。それでも「笑わせ」芸人ではなく「お笑い」芸人であるというのはなんとも示唆に富んでいると、加納愛子の言葉に触れて気が付いた。「笑い」の主体は、笑う人にある。そして誰しも持っている小さな「ぅ」のようなものを見逃さずにすくい上げ、光を当て、人々の内から笑いを生じさせるのが、お笑い芸人の正体なのだろう。

 それはさておき、アイロンがわからない。急になんだと未読の人は意味不明だろうが、既読の私だって意味不明なのだ。だが事実として、『イルカも泳ぐわい。』を読んでしまった私は今後アイロンを使うたび、これのどこにウケてるんだと悩まずにはいられない。繰り返しになるが――そして言うまでもないことだが――加納愛子のせいである。