「あの時は、ストレートだったはずのタイロンとマチアスが、二人ともコロッと持ってかれちゃったもんねー」
「傍で見ててもクラクラするんだもの。一緒に踊ってたら、無理よ」
「ヴァネッサは、初演観てないの?」
「映像は観ましたけど――ちょうどあの公演の時期、YAGPの記念ガラがあって、アメリカに行ってたんです」
「そっかー」
そう、去年の『蜘蛛女のキス』の初演の公演時、アメリカで、YAGPの歴代の受賞者によるガラ公演があったのだ。
そこであたしはHALが振付けてくれた「アグニ」のソロを踊った。
降臨する火の神。あたしの最初の当たり役だ。
片足でトウで立ったまま、もう片方の足を「グラン・パ・クラシック」並みに極限まで跳ね上げ続け、同時に腕を幾何学的に動かしつつその場で一回転するという超絶技巧の特徴あるビジュアル。披露すると必ず大喝采を浴びるソロなのだが、あたしの身体能力の通常圏内にピッタリ収まっているので、実は難しく見える割に緊張しない。
ヴァネッサ、これ、ヴァネッサには全然難しくないだろ?
最初に稽古で踊ってみせたあと、みんなが感嘆の声を上げた。あのソロすごい、面白い、難しそー、という声を聞いて、彼がこっそりあたしに尋ね、ニヤリと笑った。しーっ、せっかく買いかぶってもらってるんだものナイショよ、とあたしがウインクしてみせると、くくっ、と笑う。
さすが、HAL。大胆で極端ともいえる動きなのに、あたしのツボ的にはコスパ最高。最大限にあたしの踊りを「魅せて」くれる。
実は、その逆の振付というのも世の中にはけっこうあって、簡単そうに見えて難しく、見た目以上にストレスを感じるもののほうが緊張する。えてして、そういうのは古典に多い。
「そっか」
「映像じゃねえ――」
同情するように顔を見合わせる先輩方。『蜘蛛女のキス』の初演の話を聞くと、皆そういう顔になる。
「オーロラは、楽しいわよ」
先輩方は、顔を上気させた。
「華やかで、カッコよくて、決めのポーズがいちいち快感。特にモリーナとのパ・ド・ドゥは踊っててすごく気持ちいい。ステップのアクセントが実にぐっと来るんだな」
タタン、タタン、タタタタと先輩方は足を動かしてみせた。
「そうそう、あれね。ぴたっと止まるとすっごくアドレナリン、出る」
「HALのリフトとサポートは痒いところに手が届いて楽ちんだし、全くストレスがないから、だんだん、あたしは『何』と踊ってるんだろうって気がしてくるの。誰と、じゃなくて『何』と。あれが不思議」
JUNは、再演でモリーナを踊ることになったのだが、「初演のHALはどうだったの?」と尋ねると、「処置なし」というように首を振った。
「ヤバかった。一緒に踊ってたら、俺もヤられてたかもしれない」
そして、あきらめたように溜息をつく。
「あんな異次元の、バケモンみたいな演技は、俺にはできないよ。俺は、もうちょっと分かりやすい、物語のキャラクターらしいモリーナを目指すしかねーな」
HALは、いつもそよ風みたいな人だった。
彼がいると、そこだけ上空いつも青空、という感じ。
おはよう、ヴァネッサ。今日もキレイだね。
最初に廊下で目が合うなり、ニコッと笑って声を掛けられた時は、あっけに取られた。
綺麗な男の子。どことなく中性的。
HAL、HALとみんなが呼んでいる。
HALというのか。なんとなく、その響きは彼に似合っていた。
アジア系の子はみんな肌がしっとりして綺麗だけど、彼の肌は特に肌理が細かくて、陶磁器みたいで思わず触れてみたくなる。かなりガタイはいいのに、雰囲気はとても柔らかくて、どこか不思議な膜をまとっているよう。
踊りもすごく雰囲気があって、つい引き込まれてしまう求心力があった。
センターで踊っている彼を初めて見た時は、音楽性の高さと表現力にびっくりした。ピルエットやジャンプが先行しがちな男子の中で、あの歳で、あんなに腕を綺麗に動かせる男の子はなかなかいない。マリア先生なら、「アリアを歌える腕」と誉めてくれるだろう。
彼はあたしの返事を待つことなく、軽く手を振って通り過ぎた。ひょっとして、あたしじゃなかったのかしら? 他にヴァネッサって女の子がいるのかも。
が、連日、彼は飽きずに声を掛けてくる。
やがて慣れてくると、単なる能天気なそよ風男だと分かった。押しかけ振付とでもいうのか、いろいろな子に声を掛けては、あれやって、これやってと指示するので、「おかしな子」と思われていたし、ハッサンやJUNは明らかにうるさがっていた。あたしに声を掛けてきたのも、「あれやって」と言いたいのだが、あたしがタカビーに見えるせいか、まずは声を掛けて親しくなってから、とタイミングを計っているらしい。
おはよう、ヴァネッサ。今日もキレイだね。
あたしはツンとして答える。
あらHAL、それってセクハラよ。
そっか、ごめん。
うなだれる彼に、あたしはニヤリと笑う。
だけどホントのことだし、他でもないHALのことだもの。特別に許してあげる。
あたしは小さく催促するように手を振る。
だから、もっと言って。
そこで彼はフフッと笑って、あのそよ風みたいな笑顔でこういうのだ。
今日もとってもキレイだよ、ヴァネッサ。
いっとき、毎日、飽きもせずに全く同じやりとりを彼と繰り返していたし(「パニュキス」を作ってもらっているあいだは特に。彼の振付の才能には瞠目したし、あれのおかげですっかり親しくなった)、実は、彼のあの言葉と笑顔に救われていた時期もあった。
バレエ学校からバレエ団へ。
プロのバレエダンサーへの門はとにかく狭い。特に女子は入団希望者も多くただでさえ競争が激しいので、生き残っていくのは本当にたいへんだ。いくら有名コンクールでグランプリを獲っても、バレエ団が望んでいるキャラクターでなければあっさり落とされるし、入ってからも、一回一回役を争うシビアな生存競争に晒される。
いわば鳴り物入りで入ってきた者に対するプレッシャーやライバル心も半端ない。
バレエ団に入って、いちばんきつかったのは、あたしのアメリカ・スタイルに対する当てこすりだった。自分でそんなつもりはなかったのだが、アメリカ人だし、確かに、YAGPが代表するような北米のコンクールと、ローザンヌに象徴されるヨーロッパ・スタイルのコンクールとでは明らかにダンサーに対する評価が異なる。あたしはいかにもアメリカらしい、派手なパフォーマンスとショーマンシップが重視される、ショービジネス界のバレエダンサーとみなされているらしい。
ブロードウェイじゃないんだから。
確かに違いはあるし、そういう傾向があるのも事実だから、否定はしない。けれど、じわじわ応えるのは、あたしのスタイルへの誹謗中傷が、あたしの先生への誹謗中傷に感じられることだ。
あれじゃあ、『コーラスライン』よね。
あたしのマリア先生。ロシア革命の時に一家でアメリカに移ってきたダンサー一家の三代目。先生の祖父母も両親も、あちこちの舞台で踊りながら小さなバレエ教室から始めてコツコツと生徒を育ててきた。今ではアメリカ有数のスタジオだ。とても厳しくて、とても辛抱強くて、とても愛情を込めてあたしを育ててくれた先生。
ああ、あの「ミュージカル女優」。
先生は基礎にとても厳しかった。名教師と呼ばれたワガノワ・メソッド直系の教えを貫いていることで知られている。なのに。
ミス・アメリカ。
ひとつひとつは小さくても、それらの当てこすりは確実にどこかに棘のように突き刺さり、抜けなかった。常に血が乾くことなく、じくじくと痛みを感じている。それが耐えがたくなっていた時に、HALがいつものように声をかけてきたのだ。
おはよう、ヴァネッサ。今日もキレイだね。
とっさに受け答えができなかった。
あらHAL、それって。
その後が続けられない。セクハラ、モラハラ、パワハラ。
どれでもない、けれど、自分がまぎれもないハラスメントを受けていて、そのことにどうしようもなくめげている、という事実に胸を突かれてしまったのだ。
思わず涙ぐんでしまったあたしに、HALはすぐに気付いた。
ヴァネッサ?
慌てて目を拭ったあたしに、彼は何事かを察したらしい。
いきなり、彼はあたしの手を取ってずんずん速足で歩きだした。
【後編へ続く/毎月第三週・木曜日頃更新予定)