アンドロイドと人間が日常的に共存する世界を描き、「人間とはなにか」を鋭く問いかける――アンドロイド研究の第一人者・石黒浩が挑む初の近未来フィクション、いよいよ連載開始!
石黒氏による「僕が小説を書く意味」は→こちら
使うべきか、使わざるべきか。
小高い山にある質素な一軒家に住まう老人は、筋トレしながら悩んでいた。
カズオは、春先の梅の木のようなたたずまいをしていた。
風情がある。凜としている。存在感がある。身長は一九〇センチメートル。年のわりに筋肉質。超高齢化社会が進行し、国民の医療費が高騰、社会保障費を圧迫し続けて以降、政府は予防医療に力を入れ、国民に日々の食事の管理や定期的に運動することを推奨していた。カズオはそれとは無関係に、身体を動かすのが病的に好きだった。
彼は、金属加工を請け負う町工場の職人的な技術者として半世紀以上働いた。
職人の技術をモーションキャプチャし、彼らがどのように五感を駆使しているのかを無数のセンサを使って情報を収集して解析、機械で再現できるようにする。職能のしくみ化、ICT化、ロボット化。それらは農業でも工業でもサービス業でも行われてきた。どの業界でも、作業のデータ化、数値制御がされてきた。カズオは高度な手仕事をコピーされる側であった。産業用ロボットをいじくり、一ミクロン単位の精度が求められるものづくりのコピー精度を微調整する。そんなことも仕事にしていたが――それも今は昔。金属を削る高音も、そのときに発する独特の匂いも、記憶の中にある。現在は、リタイアの身だ。
彼は、一〇歳になる初孫、すなわち息子の息子にあたるユイに、「テレノイド」を置いていかれたのである。自分の仕事については熱心だったが、専門バカだった彼は、コミュニケーション用ロボットのことはよく知らなかった。
ユイは、直接対面で話すとどもってしまうためにテキストメッセンジャーや音声通信デバイスを用いてのコミュニケーションを好むという、変わった子どもだった。だからへんてこなロボットを使ってコミュニケーションしたいと言ってくること自体には、不思議はなかった。しかし、テレノイドという通信デバイスはあまりに奇妙すぎ、カズオには抵抗があった。
手狭な自宅のリビングでソファに座りながら、カズオはその能面のような外見をしたロボットについての情報を、音声アシスタント装置に読み上げてもらう。
「テレノイドは、人間としての必要最小限の『見かけ』と『動き』の要素のみを備えた通話用のロボットです。人間の頭部から胸部くらいまでをかたちどっています。利用者は、このやわらかな形状をした端末を抱えながら、声を通して相手と話します。対話相手の姿を見ることは基本的にはできません。オプションでカメラを付けることはできますが、推奨されていません。一方で、テレノイドを操作している人間は、ロボットに付属するカメラで撮影され、向こうからは姿が見えた状態で話をするのが通常です」
ダンベルを持ち上げながら二度くりかえし聞いたが、カズオにはイメージがなかなか湧かなかった。今度は動画で追加の情報も調べてもらうことにする。
「テレノイドが動くのは、主に目と首と手のみです。モータはたった八つしか備えていません。見かけが簡略化されているため、動かす部分もそれに応じて最小限に動くのみです。販売されている機体のバージョンにもよりますが、表情も基本的には動きません」
アシスタントが続ける。
「テレノイドのデザインは、人間が対話において最も重視する目を中心に、体の末端に向かうにつれて特徴が消えていくようになっています。一目で『人』だとわかると同時に、男性にも女性にも、あるいは幼い子にも高齢者にも見える外見を意図しています。明らかに人間に見えますが、具体的な『誰か』に見えるような特徴は持たされていません。『人との対話に必要な要素だけを備えた人間』、それがテレノイドなのです」
動画で使用例を観ても、奇妙だなという印象は変わらない。カズオはダンベルを置き、目の前のテーブルに据えていたテレノイドを持ち上げてみる。
このロボットには、子どものような小型のボディが採用されており、簡単に抱えることができる。これを抱きながら互いに通信し合うと、あたかも遠隔地で操作している知人が、すぐそばにいるような存在感を得られるのだ。アシスタントによる説明は続く。
「テレノイドは利用者に『想像によって人と関わってもらう』ロボットです。テレビ電話と比べても、対話相手のビジュアル面での情報量は無いにひとしいものです。使用者は、テレノイドを通じて聞こえてくる声から、目に見えない通話相手の姿かたちを思い浮かべます。そこに人間の想像がはたらく余地があります」
ふむ、とカズオは思う。
「使ってみないことには、まったくわからんな。しかし……」
必要最低限の「人間っぽさ」を備えた見た目とはいえ、ほとんどの人がテレノイドを使う前には――「気持ち悪い」と言う。胸部から上しかないマネキンのようで、なんだか生首に近い、という感想をカズオは持った。
こんなものを使えと言う孫が理解できなかった。だが、こう宣告されていた。
「父さんが言ってたの聞いた。冗談だと思ってたら本気だった、って。だから僕も本気だよ」
カズオはかつて息子に「芸能の道へ進むなら縁を切る」と言い、それを断行した。勘当である。彼の世代でさえ、前時代的、反動的もいいところの選択だ。
そしていま、テレノイドを使わなかったら血縁を切る、と孫が言ってきたのだ。
歴史はくりかえす。
だが、孫はかわいい。
正確に言えば、施設に入るか、テレノイドを使うか、どちらか選んでほしい。どちらも選ばなければ縁を切る、と言われたのだ。
冗談めかした態度は、いっさいなかった。
「じいちゃんには僕の実験に付き合ってもらう」
孫は誰に似たのか、生意気な口ぶりだ――と言っても、メッセンジャーで送ってきたテキストの文面では、だが。生身では目を見てもくれず、自分の口で話すこともしてくれない。それでも愛おしかった。
カズオは齢八〇を超えた身だ。筋トレを趣味にして六〇年余りの鍛え上げた肉体のつもりだが、ガタは来ている。だが、他人の手を借りるほど衰えてはいないつもりだった。背筋のひん曲がったそこらの年寄りといっしょにしてもらっては困る。
カズオの家には、ベッドがそのまま起き上がって車椅子になる移動用ロボットや、食事、排泄支援、掃除や洗濯といった家事をこなしてくれるホームアシスタントロボットがそれぞれあった。食料品や日用品の買い物はネットで頼めばその日のうちにドローンが届けてくれる。ホームドクターにも、台車にディスプレイを乗せたような簡易の遠隔操作ロボットを通じて定期的に診てもらっている。ときどきヘルパーに来てもらうか、こちらがデイサービスやショートステイで出向けば十分だ。
今さら見知らぬ誰かと共同生活など、ごめんである。悪質な老人ホームも少なくない。一方で優良なところは、入居の競争率が激しいか、費用が高額か、その両方だ。もはやそれほど財産はない。息子は芸能の世界でまあまあうまくいっており、小金を持っているようだが、頼りたくはない。
となれば、テレノイドを使うことを選ぶしかないのか。
考えながら、ランニングに出る。ランニングといっても、膝に負担をかけないていどの軽いものだ。じじくさい「散歩」だとは思いたくないカズオの認識では「ランニング」だった。
後期高齢者は、インテリジェント車椅子ロボットの利用が推奨されている。GPSとICタグによる測位機能や情報通信機能、センサによる環境認識技術を活用して自動的に目的地に辿りつくことができるものなどだ。BMI(ブレイン・マシン・インターフェース)を利用した脳波感知型車椅子を、カズオも一応は所有していた。BMIは脳の中に電極やチップを埋め込み、脳が人体へ向けて発信している電気信号を読み取り、機材につなぎ、利用者が思った通りの動作を、機材を通じて実現するものである。車椅子やロボットなどをBMIで動かすことは、当たり前に普及している技術だった。
しかし彼は、自分の足で移動することにこだわった。