人はアンドロイドになるために

1. アイデンティティ、アーカイヴ、アンドロイド 前編

アンドロイドと人間が日常的に共存する世界を描き、「人間とはなにか」を鋭く問いかける――アンドロイド研究の第一人者・石黒浩が挑む初の近未来フィクション、いよいよ連載開始!

石黒氏による「僕が小説を書く意味」は→こちら

 

 二〇〇〇人規模のホールを満員に埋めたコンサートを、ひとつのミスもなく終えて意気揚々と楽屋に戻る。歌手のハルは、満面の笑みをした女性マネージャーから知らせを受けた。

「おめでとうございます。あれ、決まりました」

 童顔に見えるがすでに三十路のハルよりも若い女性が切り出す。

「本当?」

 破顔しながら、マネージャーに問い返す。疲れが吹き飛ぶ。ハルは長身をぐっと前にかがめ、右手の拳を強く握りしめて喜びをあらわす。

 かたわらにいたコンサートの相棒――ハルとは小学生のころからの腐れ縁である歌手のユキは、乾いたタオルを首元に当て、汗を吸わせながら不機嫌そうにその様子を見る。ユキはくりっと目をしたショートカットの女性である。身長は一七〇センチ、ハルより少し低い。彼女はプライベートでもステージでも黒服男装姿に身を包み、同性からの支持を集めていた。

「ユキも喜べよ」

 ハルは優男のような外見とは裏腹に、豪快にユキの細身の腰をてのひらでばんばんと叩き、ミネラルウォーターを一気に飲み干す。喉に潤いが走る。

「論理的にありえない」

 理知的な顔立ちに複雑な感情をまとったユキは、眉をひそめ、吐き捨てるように言う。ハルは気にも留めず、にこやかに「そんなこと言うなよ」と大声で語り、笑い飛ばす。陰と陽――ユキが陰で、ハルが陽だった。

 ハルとユキによるユニット「ハルノユキ」はふたりの見目麗しい姿と世界各地の音楽を独自に取り入れたエスニックなメロディの美しさにより、人気を博していた。ヒットチャートで一位になるほどではないが、玄人好みの音楽性とポップさを兼ね備え、女癖の悪いハルの破天荒さもあいまって、メディアからの注目も高い。ハルノユキは国内のみならず、海外でも二、三〇〇〇人規模の会場であればすぐに埋めるくらいの存在感を誇っていた。

 ハルは三歳からピアノをはじめ、高校生にして作詞作曲を手がけ、みずから歌いもするミュージシャンとしてデビュー。以来十数年、キャリアをつみかさねてきた。その才能を最初に認めて惚れ込んだのが、幼稚園からの付き合いになるユキである。ハルは、自分の高い音楽的要求に完璧に応え、野放図な私生活にもかかわらず付いてきてくれる彼女を、大切な仲間だと思っていた。ハルはときに鼻持ちならない自信家であり、ビッグマウスで周囲を辟易とさせ、ネットを炎上させることもしばしばあった。ただ、音楽的には本物だった。ユキはそれを一度も疑ったことがない。幼稚園の園庭でハルが即興で歌っていた声に惹かれ、無意識のうちに自分も歌い始めていたそのときから、ずっと。

 ハルの声がもつ女性的な高音と、ユキの歌が放つ男性的な低音があいまった歌声。その性別が逆転したような組み合わせと、どこかなつかしい民族音楽的なハーモニー、ダークファンタジー的なビジュアルイメージは、国際的に高い評価を得ていた。ハルには楽曲提供やプロデュースなどのオファーが、つねに世界各地から舞い込んでいる。しかし、能力的に彼のめがねに叶う歌手も、性格的に耐えられる歌手も少なかった。結果、ハルノユキの活動が最優先されてきたのだ。

 ユキはプロ意識と努力は並外れていたが、人気、実力ともにハルほどではない。ただ楽曲の機微を繊細に読み取り歌声に変える力量、オーダーがあればそれに完璧に応えるという姿勢で、業界内の評価は高かった。ハルと並べられれば二番手であり縁の下の力持ち扱いだったが、そのうしろに誰もいない「二番」だった。彼女もまた、ハル以外との音楽活動の誘いを断り、何よりハルノユキの活動を最優先させてきた。それこそがユキのもっともやりがいを感じる仕事だったからだ。ハルはわがままだったが、ユキに説得されると折れることも多く、ハルのマネジメントサイドから重宝されてもいた。

 それはユキが献身的だとか、単純にそういうことではない。ふだんは物静かなせいで、メディアやファンはその実態を知らない。おおっぴらにはしゃべらず内に抱えているだけで、面倒くさい感情を渦巻かせていたのは彼女のほうだった。ハルのわがままに対して、ユキのほうがよりうまくゴネることで、ハルのほうが折れる。互いに怒り、衝突するが、収まるところに収まる。実際は、そんな奇妙な関係だった。

 それだけ、ハルはユキを必要としていた。

 楽観主義者と悲観主義者。アクセルとブレーキ。猥雑と潔癖。

 ふたりは互いを補い合っていた。

 恋愛や趣味のような私生活のほとんどを捨て、ハルとの音楽活動を第一に生きてきたユキは、限界までその力量を引き出してくれる彼を敬愛していた。彼女は要求があればそれに正確に応える反面、自分で自分の能力に蓋をしてしまう、セーブしてしまうところがあった。強引にタガを外すハルがなければ、ここまで来ることはできなかった。自分の限界を超えさせてくれるハル、その曲と歌で人々の心を溶かすハルを、ユキは心から尊敬していた。

 そんなハルノユキの片割れであるハルは、自分そっくりのアンドロイドをつくってもらう権利を得た。

 彼はそのことをほこらしく思い、これまでの音楽活動がむくわれた気がした。