◆定番教材をどう読み直すか
紅野 ただ、教科書ほど大量に同年代の人たちの手に取られるテキストはないですからね。逆に教科書を通して以外には、文学に触れ合わない人たちもたくさんいるわけだから、何を載せるかについては、積極的に取り組んでいかないといけないと思いますね。
安藤 国民的な共有財産というのかな。初対面の人とでも『走れメロス』や『舞姫』についての感想が言い合える。いまこれだけ価値観が多様化している中で、みんなが共通の話題にできるものがあるというのは、やはり国民的な文化資産だと思いますよね。
しかもこれは上から押し付けられているものではないんです。高校一年で『羅生門』、二年で『山月記』『こころ』、三年で『舞姫』というのは、文部科学省の学習指導要領で決まっているわけではない。長い時間をかけて自ずと培われてきてこうなっている。そういう「文化資産」という意味では教科書の果たす役割は大きいし、定番教材の一番良いところだと思います。
ただ、悪いところもあって、すぐ一つの権威になってしまう。教科書が「名作」をつくってしまうという怖さですね。鷗外にしても漱石にしても、西洋文明に果敢に立ち向かった知識人みたいな、国家的な要請に都合の良い近代という像に収められてしまう。しかしそれ以外の近代だって、まだいっぱいあるわけです。柳田国男の「常民」だって一つの近代だし、「良妻賢母」のイデオロギーだって近代になって再編されたものだし、というようにいろいろな「近代」があるなかで、「西洋に果敢に立ち向かった知識人」みたいなものだけが特化されて無意識に刷り込まれていくような、そういう恐ろしい装置でもある。
紅野 ジェンダー論的に言えば、まさに男性中心の教材が定番になっています。『羅生門』だって、盗人になるか飢え死にするかを悩むのは下人の「男」で、相手の老婆とか、死体のほうは「女」。『山月記』でも、李徴の妻の話はなく、袁傪と李徴の男同士の友情を巡って物語は展開する。『こころ』も、お嬢さんを巡る私とKの争いの部分だけが取られていく。『舞姫』のエリスに至っては、発狂してしまうというかわいそうなことになるわけです。
このあたり、戦後の国語教育が依然としてフェミニズム以前の状態であったことは確かだと思います。ただ、だから外せばよいとは思わない。『羅生門』なり『山月記』なり『舞姫』なりをディコンストラクト(脱構築)するような教材をセットにして組み合わせていくことが大事だろうと思うんですよ。
安藤 ディコンストラクトということで言えば、『舞姫』だって、実際に生徒、特に女子生徒なんかはエリス中心に読んでいたりするわけですよ。エリスの物語として読み替えてみるとどうなるだろうとか、結構面白い材料になる。
「時代によって観点を変えれば、こんなに違って見えてくる」という読み方ができるのは名作の条件なんです。かえって教師や指導者のほうが硬くなっちゃっているようなところがある。
紅野 名作と言われているもののすべてが良いわけではなくて、必ずその時代の価値観とか、場合によっては偏見のようなものの中に覆われているわけですよね。それを批判的に見たり、ずらして見たりする見方があっていいし、そのことは避けないほうがいい。差別や偏見だって簡単になくならないのだから、それをしっかり見たうえで、次にどのように変えていくのかということを考えるべきだと思うんですね。