◆「使いやすさ」の罠
──先生が教室で教える際のガイドとなる「指導書」を検定提出後に作るわけですが、それを執筆するときには、敢えて教室で生徒を刺激するような読み方を提示しますか?
紅野 定番の教材であれば、これがいままでどういう形で取り上げられて、教室でどのように利用されていたかを想定した上で、あまり読みを一義的にさせないようにするにはどうしたらよいかということは考えながら書きますね。
安藤 自分の解釈を書いてしまうのは簡単ですが、必要な情報を提供しつつ、硬直化した授業にならないための手立てを提供する、そういう発想が大切でしょうね。授業を一元化するためのガイドじゃダメです。百人の先生が百人とも同じ授業を展開するための手立てとして指導書があるのだとしたら、これは転倒している。
紅野 教材は一つの同じものだけれども、それを通して、教室の中で先生が個性化していくという形にしてもらわないと困ると思いますね。
安藤 その個性化して教える姿自体も一つのメッセージなんですよ。教材の理解という意味では、結局わからなくても「あの先生が、あれだけ夢中になって教えようとしているんだから、何かあるらしい」という思いだけは残る。それがなくなっちゃったら、ただマニュアルだけの世界になってしまう。
気になるのは、どの会社の教科書もここ二〇年ぐらいのあいだに平均化してきちゃっているんじゃないかということ。非常に危機的な状況で、会社の数は一〇社くらいあるんだけれども、少しでも採択を伸ばすために横をキョロキョロ見て、平均化していってしまうという現状がある。
紅野 教科書を読むことを通して変化してほしい。生徒もそうだけど、先生たちも変化をしていくということが大事だと思います。
かつて自分が習ってきた先生たちを見て、やっぱり、機械仕掛けの人には魅力を感じなかった。先生の個性的な語り口や意味を読み取っていく姿に、その人の経験の総量みたいなものが出てくるし、空白の部分に対する読み込みの中に、その人の自由みたいなものがある。そこで初めて、生徒はその先生に対する敬愛を感じるんだと、僕自身の経験からはそう思うんですよ。
安藤 今はどうも目先の扱いやすさ、教えやすさという技術的なところに目が行っちゃっている気がします。教室で教えやすい教材という方向にのみ向かって走り出す流れにどこかで歯止めをかけないといけない。使いやすい教科書でなければ採択されないという難しさはあるんだけれども……。
でも、文章自体が、必ずノイズとか、訳のわからなさとかを含んでいるものでしょう。わかりやすいところだけ切り取って提供する。教えやすいところだけ使うという流れには、やはり抗していかないといけないと思いますね。
紅野 知識の量とか、「こう教えたら、こうなる」というルールに従うというのは、ダメなんですよね。そうじゃないものを見せることができたときに、はじめて面白さが出てくるんだろうと思う。
安藤 象徴的なのは柳田國男だと思うんですよね。たとえば柳田の『清光館哀史』は、大変わかりづらい。その代わり、誰が見ても「これは柳田の文章だ」とわかる。ああいう訳のわからないものを、どう読み解いていくかのというのが、もっと必要だと思うんですよね。
そろそろ新しい定番がほしいですね。かつて可能性を感じた教材で僕が印象に残っているのは、井伏鱒二の『ジョセフと女子大学生』。あとは、僕が持ってきた小泉八雲が翻訳した『果心居士のはなし』。これらは根づきませんでしたけどね。
紅野 でも、これからは定番がなくてもよいと思います。いろいろなものが立ち替わり入れ替わり入ってきてもよいのではないでしょうか。「みんなに愛される」という状態は、もう難しいんじゃないでしょうか。
安藤 筑摩では、江戸川乱歩の『日記帖』を最初に入れましたね。まあ、定着しなくてもよいのだと思っていろいろチャレンジすることに意味があるのかもしれません。