◆文学史年表ではなく表現史を
安藤 教科書によって近代文学史ができてしまうことの是非もありますね。忸怩たる思いはずっとある。宇野浩二とかすごく面白い作家が他にもたくさんいるんだけれども、教科書には載らない。もっともっと豊かな面白いものがあるということを、どうやって伝えていくか……。
――詩についてはどうですか?
安藤 詩については、表現形式のおもしろさにもっと着目したい。七五外在律という軛と日本人がどう立ち向かってきたか。あるいは、口語・文語の違いなどは詩を通してこそ知ってほしい。だから上田敏とかは、ぜひ入れてほしい教材ですね。
紅野 現場では、詩歌は教えにくいと言われることが多いですね。だけど、詩歌こそ、文学においては基本であるということがあります。リズムや音声など、日本語の持っているさまざまな制約に対してどのように挑んでいくかという挑戦の歴史なわけです。それを全く抜きにしてしまうというのは、僕は反対ですね。
それぞれの詩人たちが、詩の伝統に戦い挑みながら工夫を重ね、現在の自分たちの感性や感覚に触れるような言葉を模索してきた歴史があると思います。試験問題にはしにくかったり、授業でどう説明するか困惑するのかもしれないけれど、そこにこそ逆に、先生たちの持つ詩歌に対する感受性みたいなものが問われてくることになると思います。
安藤 数を多くやる必要はないと思うんですよ。ポイントというのがあって、例えば、七・五とか八・六とか、ああいう言葉のリズムに対して、朔太郎が口語でどういう音やリズムを作ろうとしたのか。朔太郎の口語詩をいくつかやるだけでも、それまでの歴史に対するチャレンジみたいなものがわかるわけですよ。
紅野 「あめゆじゆとてちてけんじや」という「永訣の朝」の宮沢賢治の言葉は、意味がわからなくても我々の体の中に刻みつけられる気がするしね。中原中也の「サーカス」にしてもそう。「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」っていったい何なんだ。だけど、なんか妙に語呂はいいぞというね。
安藤 あとは、どうしても教科書の制約もあるけれども、小説・詩・俳句・短歌とジャンル分けしちゃうでしょう。本当はその境界こそ問わなきゃいけないんだよね。散文詩を載せて「これは小説でしょうか、詩でしょうか」と問いかけてもよいわけです。その境って何だろうと。みんなが自明に思っている詩と小説の境って何だろうとか、いろいろな問いかけが本当はできるはずなんですよ。
国語教育ではジャンルの区分けになってしまう。でも、そもそも「古文」と「現代文」という区分け自体が本当はそんなにはっきりしているものではない。古文から現代文に「いつ変わったか」「誰が変えたか」「どう変わったか」という問題意識を持って、いまの日本語の成り立ちを勉強するのが本当は「現代文」だと思うんですね。いま我々が使っている日本語になるまでに、どんな苦労があったのか。僕はそのために『舞姫』をやるんだと思います。
そういう過程を考えさせずに自明のごとく「古文」の時間、「現代文」の時間、と切り分けてしまっているところが、いまの国語教育の大きな問題点だと思う。
紅野 かつて、「近代の文章」という単元をつくったりしましたね。樋口一葉辺りから始まってね。北村透谷の『漫罵』を入れたりしていきましたよね。そういうものが、いまは難しくなってしまった。
安藤 文学史と言うと、とにかく年表というイメージになってしまうけれども、一番大切なのは表現史なんです。表現自体が歴史的にどう変容してくるのかという視点が欠落していると思いますね。