教科書で読む名作シリーズ刊行記念対談

国語教科書を編む
あの名作を選ぶ理由、選ばない理由

◆教科書には採れない名作

安藤 さっきも話が出ましたけれど、今の教室では小説に割く時間が減ってきていますよね。

紅野 小説という非常に不確定性の高いものを読むことに対して、効率主義が退けようとする傾向はあると思います。

 また、教科書には長編小説が採れない。それが小説教材に関する最大の問題です。『こころ』を残しているのは、あの切り取ったところを入口にして、「全編を読んでくださいね」というメッセージを出しているわけですが、あれだってあそこだけが特化されてしまうという危険はあるかもしれない。

安藤 教材選びの一番のネックは、小説の場合は常に分量です。あとは政治性ということもある。かつて在日三世の文章を断念したことがあります。教室での教材にはできないという現場の先生方の反対で……。

紅野 デリケートな政治的問題を孕む場合は取り扱えない。それは大文字の政治じゃなく、まさに教室の中の小文字の政治の部分で抵触しちゃう。障害を持っている人たちを巡る問題に関しても、抽象的な形の議論にするのならできるけれども、文学はある種、肉感的に、むしろ身体の想像力を刺激する形で出してくるから、そこの部分で扱えないということが起きてくる。

 四十人なら四十人という多数で読むということの難しさが教科書の中にはある。本来、本は一人が読んでいくものなのでそこにかなりの自由度がある。選ぶ、選ばないもその人の判断ですから。しかし、教科書はどうしても四十人で読むし、生徒が選ぶというよりは学校で決めているわけだから、不可避的な部分が起きてしまう。この辺が普通の読み方とは違うんですね。

安藤 本当は、言葉というのがいかに人を傷つけ、差別するものかという恐ろしさをこそ伝えないといけない。かつて掲載した芥川龍之介の『奉教人の死』には「非人」という言葉が出てきますが、これはそのまま載せました。差別語が歴史的に使われてきたということ自体を国語の現場で伝えないといけないのだという発想もありましたが、実際はなかなか難しいです。

 もう一つは、性表現の問題があります。ギリギリまで教材案として残った記憶があるのが谷崎の『刺青』なんですね。いまはいろいろな情報が氾濫しているから、そういうものに比べたら『刺青』なんか何でもないと思うけれども(笑)。

紅野 まあ、文学は悪や性、つまり人間が生きている限りつきまとってくる、あるいは誰しもが内包している問題というのに取り組んでいくのが本来の目標だから、教科書でも文学を扱う以上はどうしてもそういうところに触れてきてしまう。それを削ぎ落とすと文学の中のある限られた部分だけを切り取るという形にならざるを得ないところはありますね。

 それでも、いろいろなニュアンスが嗅ぎ取れるようにしてあるし、直接的な表現じゃなくてもいろいろなことを考えられるような形にする教材を選んできてはいると思います。

安藤 それを一つの窓口にして、どんどん読み進めていくような起爆剤にするという発想ですよね。作る側も、教える側も、そういうものが必要じゃないかな。

 あとは、一作家で複数作品を取れないという制限もあって、それが定番教材をめぐる一つの問題になっている。『羅生門』を載せてしまうから、芥川はほかに面白いものが山ほどあるけれど、使えない。鷗外もそうで、『舞姫』を使ってしまっているから、ほかのものを載せられない。漱石もそうですね。

紅野 でも、今回のちくま文庫の「教科書で読む名作」シリーズは、『羅生門』もあるけれど、それ以外にいままで入れられてきたもの、消えていってしまったものを取り上げているから読み比べてもらうと面白と思うんですよね。『奉教人の死』などにはちょっとセクシャルな場面もあるし。

安藤 教科書では分量が限られているし、完結性ということで、いわゆるテーマ小説みたいなものが好まれる傾向がある。作者の言いたいことは何か、数行でまとめられるような小説。けれども、それだったら本当は小説として読む必要はない。そういうジレンマがある、それを壊していかないといけないでしょうね。

紅野 漱石でも、今回は短いもので『夢十夜』『文鳥』などが入っています。『夢十夜』は教科書に採られたこともありますが、やはり解釈不能な部分が非常に多い。かつて内田百閒の『冥途』なんかも教科書に入れましたが、これにしてもそうですよね。

安藤 名作の持っている多義性とどう向き合うか、というのも重要な問題ですよね。

 大学の演習なんかでは「こういう観点に立てば、こういうふうに見える」「こういう観点に立てば、こういうふうに見える」と論じ合って「面白い議論ができましたね」で終わればいいけど、高校の現場というのは、最終的に「いろいろな意見が出て面白かったですね」では終われない。教師が道筋を示さないといけない。教師に力量がないと、多義性を抱え込めないんですよ。明らかな誤読は切らないといけない。だけど、誤読かそうでないか、紙一重の部分もある。そうなると、どうしても使いやすい教材に流れやすい。短い言葉で主題がまとまるようなね。

――例えば、生徒の共感が得られにくいという理由で、定番の『城の崎にて』などは、だんだん忌避されるような傾向があります。あれが必ずしも良い小説かどうかは別ですが。

紅野 でも、やっぱり、死とか病というものは、思春期にはいったん近づいてくる問題だと思うんですよ。そういうときに、病んだ人間の思いというか、そういうものを語っている小説というのは大事だと思いますよ。北条民雄であれ、志賀直哉であれ。

安藤 死の問題はまだわかりやすいかもしれませんが、テロとか、我々を取り巻いている危機感というのが非常に見えにくい状況になっているというのもありますね。かつては、古き懐かしき反戦平和主義というのがあって、はっきりわかるようなメッセージの出し方があったわけだけど、いまは何に対して感じているのかわからない危機というのがあるから、なおさら小説でそれを共有することは難しくなっている。

紅野 でも、『シン・ゴジラ』が当たり、『君の名は。』があれだけ大ヒットするんですから物語に対する欲望は潜在的にあるんだと思います。文学の持っている力だってまた蘇ってくるんじゃないかなと、楽天的かもしれないけれど、そう思いますね。

2016年12月22日更新

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安藤 宏(あんどう ひろし)

安藤 宏

1958年生まれ。近代日本文学研究者。東京大学教授。筑摩書房高等学校国語教科書編集委員。著著に、『太宰治 弱さを演じるということ』(ちくま新書 2002年)、『近代小説の表現機構』(岩波書店 2012年)、『日本近代小説史』(中公選書 2015年)、『「私」をつくる――近代小説の試み』(岩波新書 2015年)などがある。

紅野 謙介(こうの けんすけ)

紅野 謙介

1956年生まれ。近代日本文学研究者。日本大学教授。筑摩書房高等学校国語教科書編集委員。著著に、『書物の近代 メディアの文学史』(ちくま学芸文庫 1999年)、『投機としての文学 活字・懸賞・メディア』(新曜社 2003年)、『検閲と文学』(河出ブックス 2009年)、『物語岩波書店百年史1 「教養」の誕生』(岩波書店 2013年)、『国語教育の危機』(ちくま新書、2018年)などがある。

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