教科書で読む名作シリーズ刊行記念対談

国語教科書を編む
あの名作を選ぶ理由、選ばない理由

◆文学主義から言語運用へ

──今度のシリーズには、最終候補で泣く泣く切った作品が結構入っていますよね。

紅野 教科書の中における文学の位置というものが変化をしてきたところはあると思うんですよ。国語教科書には文学教材というのと評論教材というのがある。かつては、やはり文学教材がその教科書の顔だという考え方があった。

 それが少しずつシフトしてきて、最近はむしろ評論教材のほうを優先するという傾向が強くなっちゃった。入試でも文学教材を出すところが少なくなってきている。

 ただ、筑摩の場合は、まだそれを何とか維持しようとして奮闘している。文学作品の鑑賞というのは、年齢に応じて経験を積んでいく中で変化するから、教科書に載っていた文学教材が、その導きになることがあるんですよ。懐かしさであらためて触れるというきっかけによって、文学について新しい発見をすることがある。

安藤 良い意味でも悪い意味でも、文学主義というのが筑摩の一つの旗印だったんですよね。教科書専門会社じゃなくて、一般の出版社だから出せる教科書として、特に文学に力を入れてきた筑摩ならではのものを作ろうというのはあったと思います。

 けれども、一九八〇年代以降の文学概念の激変と、もう一つは、教室の国語教育の変質によって、かつての文学主義が力を持たなくなってきた。文学教育よりは、もっと実用的な言語運用にかけようということになってきているんです。

紅野 八〇年代以降の国語教育は言語生活を重視しているけれども、しかし、その場合の言語運用は効率的なコミュニケーションを追求するというだけの話なんですよ。社会で協調するとか、仕事がうまくいくとか、というのは実は狭い意味の言語生活なんです。

 本当は、もっとレンジの広い言語生活を考えないといけないわけで、そのとき、文学の教材というのが、実は一番有効な材料になるはずなんです。そこを削ぎ落とすということは、言語生活自体を痩せ細らせることになる、と改めて思いますね。

安藤 文学を通して人生を学ぶとか、世界を学ぶとか、そういう過重な思い込みは確かにあったと思いますが、今度はその反動が来て、なぜ中間がないのかなと思いますね。

 ただ、一九八〇年以降の、状況に言葉が追いついていかないような状況の中で小説が選びにくくなっているというのはあります。編集会議でいつも一番難渋するテーマは新規の小説教材探しです。明治・大正・昭和前期ぐらいの、いわゆる名作で教科書になりそうなものというのは、大方探し尽くされてしまっていて、ここ半世紀ぐらいのものから何か新しい名作を探そうとしても、なかなか見つからない。

紅野 言語論的な転回以後の新しい文学は、言葉そのものを意識させたり、虚構であるということを組み入れた形で物語を作ったりする、教材としては非常に難しい。一義的に定義できないところを表現しようとする文学になるので、「これを素材にしてテストは作れません」という話になってきたりする。

 それでも、多和田葉子さんとか、川上弘美さんのものなど、筑摩は現代文学の中でフォローできるところをうまく拾い上げてきているんじゃないかとは思います。

安藤 この五十年ぐらいの変化がすごく大きい上に、現場の先生たちには二十代前半から六十代の人までいるから、共通理解が成り立ち難い過渡期だと言えます。「これが文学だ」というものを教科書で示すというのは、なかなか難しい時代です。

2016年12月22日更新

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安藤 宏(あんどう ひろし)

安藤 宏

1958年生まれ。近代日本文学研究者。東京大学教授。筑摩書房高等学校国語教科書編集委員。著著に、『太宰治 弱さを演じるということ』(ちくま新書 2002年)、『近代小説の表現機構』(岩波書店 2012年)、『日本近代小説史』(中公選書 2015年)、『「私」をつくる――近代小説の試み』(岩波新書 2015年)などがある。

紅野 謙介(こうの けんすけ)

紅野 謙介

1956年生まれ。近代日本文学研究者。日本大学教授。筑摩書房高等学校国語教科書編集委員。著著に、『書物の近代 メディアの文学史』(ちくま学芸文庫 1999年)、『投機としての文学 活字・懸賞・メディア』(新曜社 2003年)、『検閲と文学』(河出ブックス 2009年)、『物語岩波書店百年史1 「教養」の誕生』(岩波書店 2013年)、『国語教育の危機』(ちくま新書、2018年)などがある。

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