森まゆみ著『千駄木の漱石』を読んでいて、たとえばこんな一行に出会ったとき、思わず笑い声をあげ拍手をしたくなる。
〈漱石の書いたもので一番好きなのは書簡。何で家族以外にはこんなにやさしいんでしょう。〉
文豪中の文豪とされている夏目漱石のすべての作品よりも、漱石の残した手紙や葉書のほうが好きだ、というのだ。大胆というか、世の中のジョーシキに逆らってのこの断言は、さらりと言ってのけられている、それゆえに、上手な喧嘩の啖呵の風情がある。
ぼくはかつて、かなり長いあいだ、あるカルチャースクールのエッセー教室講師を勤めていたことがある。この教室で文章とは何かについて話すとき、しばしば言ってきたのが、「文章は喧嘩だ」ということだった。世の中の暗黙の了解事項、すなわちジョーシキに向かって否と言う、ぼくはそうは思わない。どうだ文句があるか、といった喧嘩の気合でぼくは文章を書いている、まあへそ曲がりと言えばへそ曲がりだが、ジョーシキにひたりきって書くのは好きでない。この教室の年に一回発行の同人誌は教室そのものはなくなっても二〇年以上続いている。元受講者たち、つまり同人のみなさんに招ばれて毎号の発刊祝いの席に出る。まあ、同窓会といった会である。この会でよく話に出るのが、ぼくの言った「文章は喧嘩だ」ということばだ。
ついでに言えば、喧嘩は身ぶりや声の大きいのは、それだけで負けだ。肩肘を張らず、声高にならず、ジョーシキに向かって、さらりと異を唱えるのが、ほんとの喧嘩だろう。はじめのところに引用させてもらった一行は、その見本のようなものである。
この本には、漱石の膨大な書簡のなかから、じつに適切な例をあちこちで引いてあるのだが、その一つにこんなのがある。漱石が東京帝国大学の英文科講師をしていたときの、いちばんできの良い学生であった中川芳太郎あての書簡の一部だ。
〈五円残ってるなら甘いものを食って どんどん運動をして 将来に於て世の中と喧嘩をする用意をして御置きなさい。〉
世の中との喧嘩という言葉は、漱石の書簡にしばしば出てくる。森まゆみはそこに強く惹かれているようだ。こう書いている。「人生はおろかなる世間との永続する戦いである、というのが漱石の考えであった。それを例証する手紙は数多く残されている。」とことわっておいて、高浜虚子あての手紙から、つぎの一文を引く。
〈小生は生涯に文章がいくつかけるかそれが楽しみに候。また喧嘩が何年できるかそれが楽しみに候。〉
引用されているのはいずれも漱石の千駄木時代の書簡からである。
漱石は明治三六年(一九〇三年)一月、英国留学から帰国し、三月三日に本郷区駒込千駄木町五七の借家に転居、ここに四年弱住んで、いやいやながら大学で教え、ある日(明治三七年夏)迷いこんできた黒猫がきっかけで虚子らの俳誌『ホトトギス』に「吾輩は猫である」を書きはじめた。これがやがて本になって出版され、夏目漱石という作家が世に出てゆく。
千駄木時代には『坊っちゃん』『草枕』『二百十日』『野分』なども執筆されている。ただし、生活のために大学を辞めるわけにはいかない。
この千駄木時代の漱石を、著者独得の丹念な手法で洗い出しているのが、この本である。森まゆみの本にはいつも、時代の匂いと土地の匂いが濃く漂っているのだが、この本も例外ではない。
地域誌『谷中・根津・千駄木』(略称・谷根千)の主宰でよく知られる著者が、『谷中スケッチブック』(一九八五)『不思議の町 根津』(一九九二)に続く、谷根千地域史三部作の完結篇として上梓されたものだ。
漱石夫人鏡子のことなど、著者ならではのやわらかい視線は、ここでは紹介しきれない。