水辺にて、というタイトルが付されているけれど、その下にすかさず on the water /off the water と微妙な副題が添えられている。水の上にいるか、水からあがっているか、ふたつにひとつ。陸か海か、山か川か、平地か湖か、つまり、固くて動かないものとつねに流れているものの対比ではなく、あくまで基準は水、それも水中ではなくて水上にある。
水の中で、自分の重さをなくしてふわりとただよっているとき、ひとは胎内回帰に似た幻想に包まれる。何億年もまえの海の暮らしに、もしくは母の羊水に、命の水にたちかえっていく。水圧の恐怖に耐えながら浮遊をたのしむ人々は、帰るべき場所としての地上をいったん捨て、陸の上と水の中の対比を、on/ off のめりはりを大切にしているのだろう。
しかし水上となると、事情はちがってくる。そこには肺を満たす空気が、風が、陽光がある。空が、雲が、山が、木々が、鳥の鳴き声があって、雨や雪が降りさえする。すぐにも水から出て、陸へと向かう「へり」に戻れそうな気がする。そして水上で養われた思考や想念は、日常生活へと切れ目なしにつづいていく。
その水と陸の境界域へ乗り物で近づくとしたら、発動機つきの小型船やサーフボードではなく、周囲の自然と言葉を交わす余裕を生む「遅さ」のあるものが望ましい。たとえば、ひとり乗りのカヤック。水へのあこがれを満たし、自然との対話を深めるのに、これほど適した移動手段はないだろう。
著者は、あるとき、カヤックを介して広がる世界と、自身が無意識に沈めてきた夢の合致の可能性を、一瞬にして感じ取った。「ああ、もう、これは、相当のエネルギーを注ぐ羽目になる」。そう覚悟して入手した、「ボイジャー」という人工衛星と同名の組み立て式カヤックに乗り、彼女は小さなパドルを駆使して、しばし水上の人となる。
境界を進む者は、時空を超える。そしてしばしば、現実と非現実を行き来する。NASAのボイジャーはいま、太陽系の、「変動する境界」に身を置いているという。著者を運ぶ有人のボイジャーは、まさに地球上の、さらには精神の「変動する境界」を滑り、世界の音を受信しつつ、またその世界へと無言の声を発信するのだ。
イングランド東部の沼沢地フェンズ、ウィンダミア、スコットランドのロッホ・ローモンド、ネス湖にネス川、妖精のいるアラプール、アザラシがあらわれるアイルランドの小村での思い出が、日本の水に浮かぶカヤックのなかでよみがえる。ひと気のない岸辺にチューリップの咲くS湖、飛べない白鳥のいるY湖、村が沈んでいるT湖、サケがのぼってくる北海道の余市川に富良野の空知川、美々川、東大演習林——。
案内人や仲間といっしょにいるときでも、著者の五感は、たったひとりで、しかし休むことなく活動する。空の色を見きわめ、木々や花の名を特定し、鳥たちの生態を観察しては夢想にふけり、高揚した心を静かに冷やす。水辺は、はしゃぐ場所ではない。どんな国の、どんな土地にあっても、そこは《豊饒でありつつ、静かで穏やかな「死」すら、喚起する》場所、すなわち「無」のひろがるところなのだ。
けれど、その無は動きのない無ではなく、膨張しつづける宇宙の、際限なく外へと逃げていく境界領域に近い。生と死のどちらにも属さないそのような場所でこそ、「生きるために、単に『生きる』以上の何かを必要とする人々」が戦っていたからである。生きるための狩りと、楽しみのための狩りのへだたりは宇宙規模だ。「命がけの努力」は、悲壮感なしに、あたりまえのこととして、明るい孤独を生み出す。
言うまでもなく、その「命がけの努力」は、著者のなかで、カヤックでの単独行とおなじ密度で行われるはずの言葉の探索についやされる。ダムに沈んだ村を夢想のなかで訪ねる「常若の国」の章や、棒杭に化けて人を欺くサンカノゴイを描いた最終章には、そんな物語の気配が満ちている。方位磁石がどんなに狂っても、水辺に惹かれる作家は、現実と非現実の境界域にある物語の入り口を感知しなければならないのだ。その場で物語に入りきらず、帰ってから言葉にする勇気を失わずに。
※この書評は単行本刊行時のものです。