ちくま文庫

「同志よ!」と声をかけたくなる
古沢和宏著『痕跡本の世界』

 目のつけどころがいいなー。三年前、『痕跡本のすすめ』という本を見かけて感心したものなんである。わたしの知り合いに、新刊本しか買わず、本を全開するなんて言語道断、一〇センチほど開いた隙間から覗き込むように読み、線を引いたり書き込みをしたり、ページの端を折ったりするなんてあり得ないという人物がいるのだけれど、おそらくそういうタイプは少数派であって、ほとんどの読者は多かれ少なかれ本には何らかの読んだ跡を残してしまうからだ。

 しかし、『痕跡本のすすめ』に登場するのは、ちょっとやそっとの読んだ跡にはあらず。表紙に針でつついたような無数の穴をあけられてしまったホラー漫画家の本やら、仏壇の写真がはさんである安楽死関係の本やら、やらやら。「ほんとかよー」と実在を疑ってしまうほど興味深い物件が多々挙げられている。しかも著者の古沢和宏氏は、それらをただ紹介するのではなく、どうしてそのような跡がついてしまったのか、善意の妄想をめぐらせ推理までしているのだ。まさに痕跡本界における迷探偵にして語り部。書評家という職業柄、本に痕跡をつけまくっているトヨザキも感服つかまつり候の巻だったのだ。

 その待望の第二弾が『痕跡本の世界』。デザインや印刷と見紛うばかりのハイセンスな幾何学模様が、たくさんのページに描かれてしまっているマルチクリエイター佐藤雅彦の超短編集『クリック』を皮切りに、ラブレターがはさまれていたり、プレゼント相手の彼女へのメッセージが書き込まれている『アンデルセン童話集』全十巻中八冊など、五十冊以上の本の痕跡が写真付きで紹介されている。

 前作にはなかったタイプの痕跡本としては、本の表紙に「この本を拾った人はこの表紙のうらを見よ」とあるばかりか、ページを開くと「拾ってくれてどうもありがとう。ところでアナタは平和についてどう考えますか?」などと書いてあり、届け先として住所・氏名が記されている初版一九六八年の岩波新書『平和の政治学』(石田雄著)。古沢さんは痕跡本を読む際に課している条件のうちのひとつ「前の持ち主を捜さない」という禁を破って、本を返しに行くことを決意するのだ。そして、今から四十年以上も前に高校生だった持ち主から告げられる意外な真実。なかなかにスリリングな展開で、本物のミステリーのような読み心地をもたらす一編になっている。

 個人的にツボなのが、第三章におかれた「裏返し本のコワさ」。ほら、あなたの周りにもいるでしょ。何を読んでいるのか知られたくなくてカバーを裏返しにする人。で、古沢さんが入手した裏返し本の一冊にジョン・クレランドの『ファニー・ヒル』があって、これがどういう本かといえば、十八世紀に出版された時には猥褻図書の指定を受け、性愛文学の代表とされる作品ではあるものの、今となっては古典なのであり、別に持っていて恥ずかしい小説ではない。にもかかわらず、持ち主はカバーを裏返してしまったのだ。しかも、偽のタイトルまで記していて、それが何かというと……。笑ったー。写真見た瞬間、声上げて笑っちゃった。この偽のタイトルが何かを知るためだけでも、七八〇円払う価値があると断言いたします。

 共感できる痕跡本は、同じく第三章にある「本をカスタマイズする人々」に登場。わたしの場合、線を引いたり付箋を貼ったり、気づいたことを書き込んだり、人物対照表を加えたりするのは当たり前。こみいった構成のメガノベルに関しては、後で書評を書く時に困らないよう細かい字で作品全体の見取り図を記したレポート用紙を挟んだりと、カスタマイズしまくりなので、ここに出てくる本には「同志よ!」と声をかけたくなるのだ。

 だから、願わずにはいられない。自分が死んで蔵書が散逸したら、いつかどこかで古沢さんのような人の手に渡りますように。古沢さんのような人に、わたしが小説に傾けた敬意と愛情を読みとってもらえますように、と。

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