資本主義の〈その先〉に

第20回 資本主義的主体 part9

8 事前と事後

 

未だ/既に

 

 二つの視点のこうした関係から宗教的な内実を抜き取ってしまえば、つまり基準となる時点から「最後の審判」という宗教的な意味を洗い落としてしまえば、そこに出現するのは、きわめて資本主義的な行動である。このことに気づかねばならない。どのような趣旨か説明しよう。

 たとえば、資本主義の中核にある活動、資本主義の本性とも見なすべき活動、つまり投資で考えてみよう。投資するとき、企業家や投資家は、将来売ることになる商品、これから開発しようとしている商品が市場で高く評価され、しかるべき価格で売れるはずだ、と想定している。この想定こそが、プロテスタントがやっていたのと同じ、事後の視点の先取りである。「最後の審判」に対応しているのが、商品を市場に売り出すときである。この場合、市場こそが神であり、よく売れることが、(最後の審判の)救済の判定に対応している。

 本来の最後の審判は、定義上、一回だけである。それは歴史の終焉を意味している。だが、もし最後の審判が、いつまでも反復されるのだとしたらどうだろうか。最後の審判が終わったと思ったとたん、さらに先に、次の――ほんとうの――最後の審判が待っている。その最後の審判を終えても、その先にまた最後の審判がある。このように最後の審判が無限に反復され、無限に先送りされるのだとしたら、どうか。

 これこそ、資本主義の精神に基づく行動ではないか。今しがた述べた対応関係を用いるならば、最後の審判の無限の反復とは、投資し、商品を売ることでそれを回収し、再び投資し、それを回収する……という繰り返しの運動になる。つまり、最後の審判の反復は、資本の無限蓄積を結果する。資本の無限蓄積こそが、資本主義の定義である(2)

 最後の審判を基準にした事前/事後の視点の精妙な協働から、宗教的な内実を還元し、そこから得られる行動を無限に反復する。そうすると、資本主義の原型となるような活動が得られることになる。内容という点では、資本主義は宗教から解放されている。しかし、行動の形式という点では、資本主義は宗教性を帯びている。

 最後の審判の(無限の)反復は、「未だ」と「既に」しかない時間をもたらす。「ちょうどそのとき」、まさに「今」だけを、常に逸してしまうのだ。どういうことか。まず、最後の審判に未だ到達していない段階がある。そこで、最後の審判における救済――市場において商品が承認されること――を目標として投資がなされる。商品が売れ、(マルクス経済学の術語を使えば)剰余価値を獲得したとき、人は、最後の審判を通過したように感じる。既に最後の審判を終えたのだ、と。ところが、その「既に」が、まるで「ルビンの杯」が図/地転換によって見え姿を突然変えてしまうように、「未だ」へと反転してしまう。未だ最後の審判に到達していなかった、と。もう一度、「既に」の段階に入っても、その「既に」も「未だ」へとその度に反転する。

 こうして、基準となる時点、最後の審判の「今」だけが、どうしても現れない。すべての時点が、「既に」であると同時に「未だ」であり、両者の間の差異を孕んでいるが、「今」だけでは断じてありえない。これが、資本主義の時間である。

 

(1) プロテスタンティズムと資本主義や近代化・合理化とが結びついていたとするヴェーバーの仮説にとって、重大な例外はフランスである。フランスは、資本主義の競争の中で、常にイギリスやドイツの後塵を拝してきたが、それでも、大きく捉えれば、資本主義の優等生であることはまちがいない。資本主義に限らず、近代性をさまざまな基準で測ったときには、フランスは、あきらかにその中心のひとつである。しかし、フランスでは、カトリックが圧倒的に優位にあった。ヴェーバーに批判的な論者は、しばしばこの事実を喚起してきた。この点については、とりあえず、次のことを指摘しておこう。フランスではカトリックが有力だったがために、カトリックとの抗争、カトリックに対する戦いも苛烈だった。フランス革命を見れば、その過激さはすぐにわかる。早くからプロテスタンティズムの優位が確立してしまったところよりも、フランスの方がより激しく、長期にわたってカトリックを弾圧したのだ。この事実を確認した上で、行動的禁欲に関しては、私は次のような仮説を提起しておきたい。フランスでは、プロテスタンティズムの機能的な代替物があった、と。それは、ストイシズムである。啓蒙期のフランスの知識人の間では、ストア派の哲学が流行した。古代のヘレニズム期の思想家の文献、小セネカやエピクテトスなどが広く読まれたのだ。彼らのストア派解釈は、厳密な思想史の観点からすると、問題があるという。しかし、そのことはここでは重要ではない。独自に解釈(あるいはむしろ改釈)されたストア派の哲学が、プロテスタンティズムの代わりに、フランスのエリートたちの間に、行動的禁欲に似たエートスを生み出したのではないか。これは仮説である。

(2) イマニュエル・ウォーラーステイン『入門・世界システム分析』山下範久訳、藤原書店、2006 

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