資本主義の〈その先〉に

第19回 資本主義的主体 part8

7 神の全能と無能

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カルヴァン派信者の無意識の推論

 プロテスタントの世俗内禁欲は、生活全般の方法的な合理化を意味する。これが資本主義の精神に帰結する。ヴェーバーはこのように論じたのであった。

  世俗内禁欲は、われわれが導入したゲームと対応づければ、明らかに不合理な方の選択肢H1をとることを意味していた。合理的な行為主体であれば、H2を選択するはずだ。方法的な合理化の原点には、とてつもなく不合理な選択がある、ということにもなる。別の言い方をすれば、本来であれば愚かな者しか選択しないはずのH1が、どのようにしたら愚かではない合理的な選択として現れるのか、を考えればよいことになる。

  そこで予見者を導入したのだった。だが、前回述べたように、予見者がいても、行為主体の選択には何の影響も与えないように見える。彼/彼女にとって合理的なのは、依然としてH2であって、H1ではない。予見者は、無意味な装置、遊んでいる歯車、いてもいなくても同じ要素であるように思える。その通りなのだが、予見者に別の資格を与えると、状況はがらりと変わる。予見者がやること自体は何も変わらない。予見者は、行為主体の選択をあらかじめ予想し、その予想との相関で、箱Bの中身を(10億円か0円か)決める。変わるのは、予見者がこの同じことを何の資格で行うのかということである。予見者は何者としてそれを行うのか。変化のポイントは、端的に言えば、予見者に貼り付けられる記号(シニフィアン)である。

  予見者は、全知全能の神として、それを行うのだ。このとき、行為主体である「私」が――無意識のうちに――どのように推論することになるのか、その推論をもとに私がどう選択し、行動することになるのか、これを再現してみよう。予見者は、私が何を選択することになるのかを、最初から知っている……これが、行為主体である私の大前提である。この大前提は、私がこの予見者を神として想定している、ということとまったく同値(同じ意味)だ。この前提は、予見者があらかじめ(私の選択の前に)、事後の視点(私の選択の後に属する視点)をもっている、ということを含意している。普通は、私が選択するのを見てはじめて、人は私が何を選択したのかを(H1/H2を選択したのを)知る。しかし、「大前提」は、神としての予見者が、本来であれば私が選択してしまった後に(人が)分かるはずのことを、あらかじめ知っている、ということを意味している。これが、予見者が事後の視点を事前にもっている、ということの趣旨である。

  行為主体である私は、事後の視点の存在を、予見者に帰属させるかたちで想定(前提)することができる。逆に言えば、予見者(神としての予見者)が存在しなければ、事後の視点の実在を、私は想定することができない。この前提のもとで、私の推論はどのように展開するだろうか。

  私がH1を選択するとしたら、どうだろうか。それは、予見者である神が、過去(宇宙の始まりの時点、ゲームが始まる前)において、「私」が選択するだろう行為としてH1を予想していたことを意味する。逆に、私がH2を選択するとしたらどうか。もちろん、このときには、予見者=神が、過去において、私の選択としてH2を予想していたことになる。ところで、私が、10億円を得るのは――つまり救済されるのは――、ゲームの設定として、予見者=神が、私の選択に関して、H1(世俗内禁欲)を予想していたときであった。それならば、私は、「予見者=神が、私の将来の行為としてH1を予想していた」ということになるように、実際に、H1を選択しよう。……これが、行為者である「私」の無意識の推論である。H1こそ、世俗内禁欲にあたるのだった。

  こうして、私は、支配戦略H2を裏切るような選択を行うことになる。これが、ニューカムのパラドクスである。カルヴァン派の予定説の神とは、この予見者のような神である。われわれは、ニューカムとデュピュイの助けを借りて、カルヴァン派の信者の世俗内禁欲のメカニズムを、ゲーム論的に形式化することに成功したのだ。

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