あなたの悩み、世界文学でお答えします。

〈4〉 結婚に向いていない人しか好きになれません
☞ エミリー・ブロンテ『嵐が丘』がオススメ

「恋のツラみ」から「職場でのつまずき」まで、現代人のお悩みに、世界文学のあの作品この作品を紹介しつつ、キリッと答えていく堀越英美さんの好評連載。第4回のお悩みは……

【お悩み】 早く結婚したいと思っていますが、好きになる人が、ことごとく結婚に向かないタイプの異性ばかりです。穏やかで堅実な人と結婚すれば幸せになれるとわかっていますが、そういう人では物足りないのです。

【お答え】 『嵐が丘』を読んで自分の恋愛をパターン分析してみよう。

 

◆ 「あいつだけはやめときな」的恋愛の3大パターン

「あいつだけはやめときなって……」と周囲から言われるような相手にのめり込む恋愛には、大きく分けて3つのパターンがあるように思う。

ダメな人の世話を焼くことで自分の存在価値を感じている

②いつも自分を抑えて生きているので、やりたい放題の傲慢な強者に憧れてしまう

③性格が悪くて人付き合いが苦手なので、自分と同じような性格の悪さを持つ人を好きになる

この3パターンの恋愛がすべて登場し、結果として二つの家の人々がことごとく破滅していく小説といえば、『嵐が丘』である。

舞台はイングランド北部の田舎にたたずむお屋敷「嵐が丘(ワザリング・ハイツ)」。その主人アーンショー氏に気に入られて拾われた孤児のヒースクリフは、主人の娘キャサリンと恋に落ちる。この身分違いの恋が、すべての破滅の始まりだった。

子供時代は荒野を駆けずりまわって仲良く遊んでいた二人も、成長すれば階級制度と無縁ではいられない。キャサリンの兄ヒンドリーは父の死後、嫉妬心からヒースクリフを使用人の身分に落としていじめる。さらに上流階級との付き合いが始まり、ヒースクリフと結婚して貧乏になることは考えられなくなったキャサリンは、お坊っちゃまのエドガー・リントンと結婚してしまう。リントン家はかつて、身分の低いヒースクリフを屋敷にいれず、彼に屈辱を与えた家だった。そんなリントン家の兄妹を、キャサリンはヒースクリフと一緒に甘ったれだとバカにしてくれたはずなのに。

人間としての強さよりも階級がものをいう家制度に絶望したヒースクリフは失踪し、3年後に裕福な紳士となって嵐が丘に舞い戻ってくる。目的はアーンショー家とリントン家への復讐だった。ヒースクリフは、家制度に守られて使用人を使ってぬくぬくと暮らしていた人々から家を奪い、その子供たちを死ぬまで追いつめる、もしくは使用人にしてしまうのである。

◆ 性格が悪く、人付き合いが苦手な自分と似た人が好きになるパターン

物語の軸となるキャサリンとヒースクリフの恋愛は、パターン③「性格が悪くて人付き合いが苦手なので、自分と同じような性格の悪さを持つ人を好きになる」だろう。キャサリンがヒースクリフを捨てただけの話なら、復讐の対象はキャサリンになるはずだ。しかしヒースクリフは両家の誰に対しても暴力を辞さないが、キャサリンに手を出すことはない。そもそもキャサリンは愛と結婚は別物だと考えていただけで、ヒースクリフを捨てたつもりはなかった。裕福なエドガーと結婚すればヒースクリフを使用人の身分から解放し、いい暮らしをさせてあげられるよね、と悪気なく考えていただけなのだ。キャサリンは、結婚によってヒースクリフが傷つくだろうとか、ほかに好きな人がいるのに結婚するなんてエドガーに悪い、などと人の気持ちをいちいち考えたりしない。そういう自己中心的な強者女性だからこそ、ヒースクリフも好きになった。複雑な生い立ちで心身ともに強くあらねばならなかったヒースクリフもまた、他人の顔色をうかがうような弱者が大嫌いだからだ。二人は一心同体だった。

「わたしがヒースクリフを愛しているのは、ハンサムだからなんていう理由からじゃないのよ、ネリー。ヒースクリフがわたし以上にわたしだからなの。魂が何でできているか知らないけど、ヒースクリフの魂とわたしの魂は同じ――エドガーの魂とは、月光と稲妻、霜と火くらいに掛け離れているのよ」(上巻 p.163)

キャサリンはヒースクリフを愛する一方で、ヒースクリフへの恋に浮かれるエドガーの妹イザベラに、あいつは洗練も上品さもない野蛮人だからやめたほうがいい、と冷静に忠告している。キャサリンに言わせれば、ヒースクリフは不毛の荒野そのものであり、狂暴で情け容赦のない狼みたいな男なのだ。そんな人間と魂が同じだというくらいだから、キャサリンも自分が「不毛の荒野」レベルで荒くれていて、根っこでは上流階級の社会になじめていないことは自覚しているのだろう。

獣のように生きるキャサリンは、人をねたんだことがない。だからエドガーがヒースクリフに嫉妬心を抱く理由がわからない。強すぎて人が何に傷つくかわからないキャサリンは、俗世間の人々と共感的な関係を築くことが困難だ。人付き合いより荒野を走り回ることを好む彼女に、ドアの内側の俗世間は窮屈すぎた。彼女は死の間際に、こんなことも言っている。‟I wish I were out of doors! I wish I were a girl again, half savage and hardy, and free; and laughing at injuries, not maddening under them! ”(ドアの外に出たい! また少女に戻りたい。野蛮人みたいにたくましくて自由で、ケガしたってイライラしないで笑っていられる少女に!)

おそらくヒースクリフも同じだった。だから二人だけの世界を作って、互いを熱烈に求めるのである。『嵐が丘』という小説は、台風と台風のぶつかりあいみたいな恋愛のさなかに穏やかな異性と結婚したところで、うまくいくとはかぎらないということを教えてくれる。疲れ切って自分の台風の勢力が弱まるまで、激しい相手と激しい恋をし続けるしかない。

◆ 傲慢な強者に憧れるパターンと、ダメ人間の世話を焼く自分に価値を感じるパターン

気が弱いのに自分とは正反対のキャサリンを選ぶエドガーと、ヒースクリフを選ぶイザベラは、パターン②「いつも自分を抑えて生きているので、やりたい放題の傲慢な強者に憧れてしまう」だろうか。残念ながら二人とも、気性の荒い配偶者に振り回されて早逝する。自分も弱い人間なので傲慢な強者に憧れる気持ちはよくわかるが、若い頃のそうした憧れはだいたい幻滅で終わったように思う。憧れの根っこに自分自身が強くありたいという感情があるのなら、自分の弱さを受け容れる、もしくは基礎体力の向上を図るなどして自己強化に励むといったやりかたで自己受容を目指したほうがいいと若い頃の自分に伝えたい。

キャサリンの死後、その娘である二代目キャサリンがヒースクリフのわがまま息子リントンに尽くしてしまうのは、パターン①「ダメな人の世話を焼くことに自分の存在価値を感じている」である(なお、母も娘もキャサリンなのはややこしいので、二代目キャサリンは愛称のキャシーで呼ぶ)。

病弱なため甘やかされて育ったリントンは、作中で最も救いようのない存在として描かれている。いつもお菓子を食べ、使用人をこきつかって礼も言わず、夜風にあたったらぼく死んじゃうよ、と自分で窓を閉めることさえしない。親であるヒースクリフにすら、あいつにできることは歯を抜いた猫をいじめることぐらいだと言われてしまう。キャシーにも言いたい放題わがままを言うが、彼女に椅子をちょっと押されただけで、君のせいで咳が出て一晩中眠れなくなる、と大声で泣き出してしまう。困ったキャシーが帰ろうとすると、椅子からわざと転んで苦しんでみせ、キャシーの気をひこうとする。さらに君がぼくの具合を悪くしたんだから、これからも来るのが当然だ、と病弱を盾に要求する。付き合ってもいないのに、モラハラのフルコース。なのにキャシーは、そんな彼の世話をせっせと焼くのだ。

父子家庭の一人っ子で近所づきあいもほぼなく、家の中で使用人に世話を焼かれて育った天真爛漫なキャシーは、自分が他人の役に立つという経験をしたことがおそらくない。だから歌を歌って、本を読んでと遠慮なく甘えてくる弱々しいリントンの期待に応えることに生きがいを感じている。その感情は、あくまで弟に対するようなものにすぎない。しかしヒースクリフの陰謀で、キャシーはリントンと無理やり結婚させられてしまう。さらにリントンの死後、キャシーは使用人の身分に落とされる。皮肉なことに、ここからヒースクリフの使用人ヘアトンとの心温まる交流が始まる。

ヘアトンは、ヒースクリフをいじめて使用人の身分に落としたヒンドリーの息子である。ヒースクリフは復讐のために、その息子のヘアトンを使用人にし、勉強をさせず文字も読めない粗野な若者として育てたのだった。かつてはリントンと一緒に無学なヘアトンをバカにしていたキャシーだが、使用人として働いているうちに、ヘアトンへの気持ちに変化が訪れる。働き者で向上心があり、劣悪な環境にあっても根の優しさは失わないヘアトンの人間としての強さに、ようやく気づくのだ。キャシーはヘアトンの向学心に応え、優しく読み書きを教え始める。

そんな二人の姿を見たヒースクリフは、キャサリンが勉強を教えてくれた少年時代を思い出す。それはヒースクリフが復讐心の裏で、ずっと取り戻したかったものだった。身分など関係なく、優しさを交わしあえた子供時代の至福の時間。二人の光景は、最も欲しいものを現世で得ることはもはやかなわないことをヒースクリフに自覚させたのだろう。ヒースクリフは、完全な支配を達成した家の窓を(キャサリンが死の間際にそうしたように)開け放ち、愛する人のもと――荒野――へと旅立つ。

ヒースクリフの絶望はさておき、パターン①「ダメな人の世話を焼くことに自分の存在価値を感じている」場合の対処法は、ここからわかる。自己効力感はダメ人間のケアではなく、体を動かして働くことで得なさい、ということなのだろう。なんといっても、この物語の語り手は、愛と暴力の嵐が吹き荒れるなかでケア労働を淡々と続ける使用人のネリーなのだ。ネリーは両家の騒動を語りながらも、このお屋敷で分別のある人間は私だけ、だとかヒースクリフのこの点だけは私と同じくらいまとも、といった「私が一番まとも」アピールをちょいちょいはさんでくる。後半のお坊っちゃまリントンと使用人ヘアトンのあからさまな対比が見せるように、この物語において健全な精神は常に使用人サイドにある。『嵐が丘』の裏メッセージは、差別的な制度に甘えて自分のケアを他人まかせにしていると、自我が肥大して性衝動と暴力衝動が暴走するから気をつけろ、ということなんじゃないかと思えてくるほどだ。

ともあれ、不毛な恋愛に悩んでいるときこそ、『嵐が丘』はおすすめである。自分がどのパターンに当てはまっているか客観視するきっかけになるかもしれないし、誰にも感情移入できないとしても、自分より不毛な恋愛にはまっている人たちに出会えることは間違いないからだ。今の恋愛にほとほと嫌気がさしたら、荒野を走って家事をしよう

 

◎『嵐が丘』エミリー・ブロンテ著、河島弘美訳・岩波文庫、2004年

エミリー・ブロンテ(1818-48)は英国の小説家。ブロンテ三姉妹の一人(長姉シャーロット、末妹アン)。ヨークシャーの牧師の家に生まれ、幼くして母を失う。1824年、シャーロットとエミリーは、上の2人の姉とともに寄宿学校へ送られたが、劣悪な待遇のため、2人の姉は病にかかり、翌年死亡。シャーロットとエミリーは家に連れ戻され、三姉妹は別の学校へ。人間嫌いで内向的なエミリーは、ほどなくホームシックになり帰宅。46年、三姉妹は共同詩集を自費出版するも、さしたる反響もなく、2部しか売れなかった。翌47年、シャーロットは『ジェイン・エア』を刊行し、ベストセラーに。同じ年にエミリーも『嵐が丘』を出版するが不評だった。1848年、結核にかかり、30歳でこの世を去った。(編集部)

 

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