あなたの悩み、世界文学でお答えします。

〈19〉ロジカルすぎるせいかモテません
☞ トルストイ『アンナ・カレーニナ』がオススメ

「恋のツラみ」から「職場でのつまずき」まで、現代人のお悩みに、世界文学のあの作品この作品を紹介しつつ、キリッと答えていく堀越英美さんの好評連載。今回のお悩みは……

【お悩み】勉学、スポーツ、仕事、あらゆるものごとにおいてロジックを優先して生きてきました。恋愛においても性欲にとらわれた一時の迷妄ではなく、幸せな家庭を築けるポテンシャルのある人を好きになります。ところが私が好きになるような控え目で素朴な人は、ロジカルな私ではなく、非科学的な占いの話題に適当に話を合わせられるような、いわゆる「陽キャ」を好むようです。恋愛の前に理屈は無力なのでしょうか。

【お答え】『アンナ・カレーニナ』の理屈っぽいリョーヴィンの恋愛成就から学ぼう

 

◆ リクツ優先の「陰キャ」男子

トルストイの名作『アンナ・カレーニナ』が、愛のない政府高官カレーニンとの結婚生活に飽いている美女アンナ・カレーニナが、若く美しい将校ヴロンスキーと不倫の恋に落ちる話なのは有名である。だれの目にも美しく優雅で、社交界の花形であるアンナとヴロンスキー。魅力的な彼らは恋に落ちるのも早ければ、その後の展開もスピーディだ。だが美男美女たちが理性を吹っ飛ばして生きるの死ぬのの大恋愛を繰り広げる後ろで、理性を重んじ、ゆっくりと愛を成就させていく「陰キャ」がいる。それが本作の第二の主人公と言われているリョーヴィンである。

地方で農場経営をしている地主貴族リョーヴィンは、親友の妻の妹であるキティに恋をしていた。家柄の良い貴族でありながら力仕事をこなし、熊狩りも得意なリョーヴィンだが、都会の社交となると「陸に上がった魚」(3巻p.333)のようだと異父兄に形容されるくらい苦手だった。自分が得意とする牛の繁殖や大工仕事は男性貴族からは見くびられ、筋肉質だが美男子ではない自分は女性貴族にもモテないと信じていたせいでもある。だが、結婚相手はキティ以外ありえないと思い込み、ダメ元でモスクワにやってくる。

リョーヴィンにとって世界には二種類の女性しかないということも承知していた。一種類は彼女を除いた世のすべての女性で、あらゆる人間的欠点を持った、きわめてありふれた女性たち、そしてもう一種類はひとり彼女のみであり、完全無欠、あらゆる人間的なものを超越した存在なのだ。(1巻p.98)

キティしか目に入らないリョーヴィンは、若者たちが集う団らんの場で、キティの女友だちの心霊話を非科学的だと一笑に付す。女性慣れしていないリョーヴィンはまだ知らなかったのである。目当ての女性だけをちやほやして周囲の女性たちをバカにすると、当の女性にも避けられてしまうということに。

リョーヴィンにとって間の悪いことに、その場には「陽キャ」を絵に描いたような美貌の青年将校ヴロンスキーがいた。ヴロンスキーは、まだ自分たちの知らない新しい力があるのではないかと女性たちを擁護する。納得できないリョーヴィンは、とことんヴロンスキーを問い詰め、論破してしまう。それでもモテ男ヴロンスキーは議論に熱くなったりはせず、こっくりさんの実験でもしてみましょうよ、とにこやかに話しかける。キティがヴロンスキーに恋をするのも当然だろう。もっともヴロンスキーの本命は、本作のヒロインであるアンナ・カレーニナだったのだが。

◆ 農民たちとの協働で芽生えた共感力

一世一代の恋に敗れたリョーヴィンは地元に帰り、自分にはこれしかないと農業経営の合理化に没頭する。ところが貴族であるリョーヴィンの権威的な指示に農民たちは反発し、なかなか合理的なやり方を実行してくれない。しかたなくリョーヴィンは、農民にまじって草刈りまでするようになった。夢中になりすぎて草刈りハイに達したリョーヴィンは、いつの間にか農民たちと親しくなっていた。理屈っぽさが和らぎ、学のない農民たちにも通じ合えるところがあるとわかったリョーヴィンは、農民の娘と結婚すればいいじゃないかと思う。ところがその矢先、偶然キティを見かける。いやいやないない、妻はやっぱりキティしかありえないと思い直したリョーヴィンは、キティの失恋のうわさを聞き、再び親友の家に行くことを決意する。

親友の客間では、男たちの議論が盛り上がっていた。議論を牽引するのは、リョーヴィン以上にロジカルなインテリ、ペスツォフという男である。ペスツォフは、女子の教育と権利というテーマを持ち出した。女の能力を疑問視し、女に自由を与えるのは有害だと回りくどい言い回しで述べるのは、アンナの夫カレーニンだ(このやりとりだけでもアンナが夫婦生活から逃げたくなる理由がわかる)。「女性は、自由な身になり、教育を受ける権利を欲しています。なのにそれが不可能だという意識にさいなまれ、打ちひしがれているのです」というペスツォフの意見を、キティの父である老公爵は「わたしのほうは、養育院の乳母に雇ってもらえないことで、さいなまれ、打ちひしがれているよ」(2巻p.387)と茶化す。リョーヴィンが苦手なチャラ男・トゥロフツィンは、老公爵のしょうもないまぜっかえしに大笑いする。リョーヴィンもまた、ペスツォフの問題意識を理解できなかった。「女性の自由」が自分に得をもたらすとは思えなかったからである。だが、かつてであれば議論に参加し、(キティ以外の)女の愚かしさをあげつらっていたであろうリョーヴィンは、議論をただ黙って聞いていた。キティがいたからということもあるが、議論をしても役に立たないと思い始めていたからでもある。

リョーヴィンはキティにこっそり、トゥロフツィンはつまらない人間だと告げる。キティはトゥロフツィンがキティの姉の子供たちの看病を熱心に手伝ってくれたことを伝え、それは間違いだと反論した。するとリョーヴィンは、なぜこの男の魅力に気づかなかったのだろうと素直に反省する。「いや、本当にすみませんでした、これからはけっして人のこと悪く思わないように心がけますから!」(2巻p.392)

リョーヴィンとキティは、女性の自由と仕事についての議論を二人きりですることにした。リョーヴィンの意見にキティが反論しかけるが、みなまで言わずとも、リョーヴィンはキティの言わんとするところを理解できた。「そうだ、そうだ、そうですね、まったく、おっしゃるとおりです!」(2巻p.406)。リョーヴィンはキティのご機嫌をとるために自分の意見を撤回したわけではない。キティの「恐怖と屈辱」を感じ取れたおかげで、ペスツォフが語っていた「女性の自由」の本当の意味を理解できたのである。

◆ ロジカルさとケア&エンパシーは相反しない

気持ちが通じ合ったリョーヴィンとキティは、テーブルの上にチョークで頭文字だけを書く秘密の会話をはじめる。その内容は、かつての行き違いを謝罪し、思いを伝えあうものだった。

「も、あ、あ、こ、わ、ゆ、く」(もしも、あなたが、あのときの、ことを、忘れて、許して、くださったら)

「ぼ、な、わ、ゆ、あ、ぼ、ず、あ、す」(ぼくには、何ひとつ、忘れることも、許すことも、ありません。ぼくは、ずっと、あなたが、好きでした)(2巻p.409)

リョーヴィンは農民と一緒にハイになるまで農作業に明け暮れて気持ちを共にすることで、自分とは異なる立場の他者の感情に思いを馳せ、読み取り、共鳴する「エンパシー」の力を身につけていたのだった。もちろん、ロジカルさや真面目さを捨てることなく。

恋が成就して浮かれモード全開になったリョーヴィンは、ますますエンパシーを爆発させる。これまで目に留めたこともないボーイから家族の自慢話を聞き出して共感し、近所のギャンブラーの身の上を思って涙し、果ては道端のハトが飛ぶ姿にも感動して泣いてしまう。そんなリョーヴィンをかわいいと思うのは読者だけではないようで、リョーヴィンは初対面の人を含めあらゆる人に愛され、結婚にあたっていろいろな援助を受けることになる。

もちろん結婚生活は、浮かれだけでは維持できない。キティが陽キャ男性と親しく会話をするだけで、リョーヴィンがすねるのは相変わらずだ。キティもキティで、リョーヴィンがアンナを語るときの目の輝きから、「あなたはあのいやらしい女が好きになったのね。誑かされたんだわ」(4巻p.90)と泣き出す。嫉妬からの夫婦ゲンカはしょっちゅうだ。しかしリョーヴィンは持ち前のロジカルさで自分の感情と行動を分析し、それをキティにありのままに伝えて話し合い、小競り合いを乗り越えていく。アンナとヴロンスキーがプライドの高さゆえに本心を伝えられず、すれ違っていくのとは対照的である。

死の淵にあるリョーヴィンの兄の看病に夫婦そろって出向いたときも、リョーヴィンはキティの行動から彼女の美質を見事にとらえる。死へのおびえから肉親である自分や恋人にも狷介な態度をとる兄が、キティにだけは心を開いたからである。いかなるときも観察と思考を怠らないリョーヴィンは、ケアは女の本能だからという通説には乗っからない。キティや家政婦は、「死にゆく者のために身体的なケアよりももっと大事な何か」(3巻p.157)を知っていると考える。そして死の問題を考察してきた男性の賢者たちだって、キティや家政婦が知っていることの百分の一も知らないだろうと素直に尊敬する。実際キティは、ヴロンスキーにフラレて体調を崩した時に過ごした療養先で、貧しい育ちながらプロのケアラーである女性と出会い、彼女のもとでケアの研鑽を積んでいたのである。リョーヴィンはキティから、ケアのすごさを学ぶ。

リョーヴィンの成長を見ていると、ロジカルさとケアやエンパシーは相反するものではなく、両立しうるものであることがよくわかる。キティとの暮らしによってケアとエンパシーの力をますます磨いたリョーヴィンは、農地経営の仕事でもそれまでの権威主義的な管理をやめ、共感的なアプローチで協力的な農耕文化を生み出し、自分と農民たちの利益を増大させる。リョーヴィンはロジカルさを相手の感情を無視したり、自分の感情をごまかすために使うのではなく、相手を個人として尊重し、観察したデータから感情を推測し、ケアするために使うことで、夢見ていた裕福で幸せな結婚生活を得られた。理屈っぽさは、ケアとエンパシーをプラスすれば、決して恋の敵ではないのである。 

 

◎『アンナ・カレーニナ』全4巻、トルストイ著、望月哲男訳、光文社古典新訳文庫、2008年

トルストイ(1828~1910)は、19世紀ロシア文学を代表する小説家の一人。無欲・勤勉・非暴力・無抵抗・反戦を唱えるなど、思想家としても大きな影響を残す。伯爵家の四男としてトゥーラ県ヤースナヤ・ポリャート村に生まれる。2歳で母を、9歳で父を失い、叔母が後見人となる。カザン大学中退後、勉学と農民生活の改善事業に取り組むも挫折。1851年、23歳でコーカサス戦線へ赴き、52年、第一作『幼年時代』を発表。53年のクリミア戦争には将校として従軍。56年に退役後、村に戻り、所有農奴の解放を試みる。62年、ソフィヤ・アンドレーエヴナと結婚し、文筆活動に専念。69年には『戦争と平和』、77年には『アンナ・カレーニナ』が完成。他の主著として『復活』(1899)などがある。(編集部)