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〈17〉50代になってから、毎日が憂鬱です
☞ ウルフ『ダロウェイ夫人』がオススメ

「恋のツラみ」から「職場でのつまずき」まで、現代人のお悩みに、世界文学のあの作品この作品を紹介しつつ、キリッと答えていく堀越英美さんの好評連載。今回のお悩みは……

【お悩み】 50代女性です。裕福で堅実な夫と結婚し、子育てもひと段落して悠々自適な暮らし。周囲からは幸せな女に見えているでしょう。でもなぜか、毎日が憂鬱なのです。青春時代を振り返っては、これ以上生きていてもあれほど幸せなことはないだろうからもう死んでもいいと思ってしまったり、戦争や災害で大変な思いをしている人たちがいるのにこんなことで悩むなんて、とうしろめたさを感じたり、破天荒な元カレと結婚していたらどんな感じだったかを想像したり。どうにか前向きになりたいです。

【お答え】『ダロウェイ夫人』を読んで朝の散歩をしよう!

 

『論語』に「五十にして天命を知る」という一文があるように、50歳は一般に自分の人生の意味がわかる年と言われている。確かに50歳になってみると、人生がおおよそ定まった気になるのは事実だ。それはつまり、選ばなかった人生、あるいは選べなかった人生が、もう二度と手に入らないものとして重くのしかかってくるということでもある。手に入らないものは職業かもしれないし、子どもかもしれない。人によっては革命を起こすことだったり、整形美人になってモテまくることだったりするかもしれない。

◆ だれもがモノローグを語り出す

モダニズム文学の代表的作家、ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』の主人公クラリッサ・ダロウェイも、ときおり憂鬱になる51歳の既婚女性だ。具体的に何か不幸があるというわけではない。保守党議員の夫は優しく、17歳の一人娘エリザベスも立派に育っている。「100年前のパンデミック」と呼ばれるスペイン風邪(インフルエンザ)の後遺症で少し体調が悪いものの、病気は憂鬱の直接の原因ではない。

クラリッサは6月のある朝、自分が主催するパーティのために花を買いに出かける。さわやかな朝の空気に、青春時代、そして昔の恋人や好きだった同性を思い出す。そこからクラリッサの思いは過去と現在を行き来する。小説は、パーティの一日の間にクラリッサの頭の中をとめどなく流れる思念と、周囲の人々の意識とが混ざり合いながら進んでいく。

「意識の流れ」を技巧として用いている本作のユニークなところは、主人公のみならず、夫や元カレ、娘の家庭教師、夫が参加する昼食会の女主人、パーティに訪れる精神科医、その患者でPTSDに苦しむ元軍人とその妻、果てはただの通行人の内心までもが、主人公であるかのように一人称で細かく描写される点にある。少女マンガでいえば「ねえ ナナ あの川べりで肩を並べて水面を彩る光を見たよね…」といったモノローグを、主人公だけでなく通りすがりのおばあさんまで語り出すようなものである。

◆だれもが複雑で、だれともわかりあえない

この小説に登場するだれもが、主人公と同じように複雑な内面を抱えている。それぞれにややこしく屈折している中年期の彼らは、本当のところではだれともわかりあえない。ウキウキと買い物に出かけたクラリッサも、娘の家庭教師の目つきを思い出して自分が嫌われていると思い、とたんに憂鬱になってしまう。

心の中でうごめく残忍な怪物にクラリッサの神経はきしんだ。(…)怪物のうごめきが背骨をこそぎ、痛めつける。これはもう物理的な痛み。美や友情に触れる喜びも、健康で愛されて楽しい家庭を築く喜びも、根底から揺すぶられ、震え、ねじ曲げられる。まるで魂を根こそぎにされる感じ。充足? 中身をよく見てものを言え、と怪物が冷笑する。自己愛以外の何がある、と鼻先で笑う。この憎しみ……。(p.27)

クラリッサの痛みは、決して思い過ごしではない。というのも、貧しくて容姿にコンプレックスのある家庭教師が、上流階級のクラリッサに対して「こんな贅沢の中にいて、どうして社会の改善など目指す気になどなれるの。いつまでもソファに寝転んでないで(…)工場に行きなさいよ――あんたもお仲間のマダム連中も」(p.217)「ばか、間抜け、と思っていた。悲しみも喜びも知らず、人生を無為に過ごす女め!」(p.218)といった恨みをひそかに抱え込んでいることも、家庭教師の視点で長々と語られているからである。

クラリッサが家庭教師の憎悪を感じ取れてしまうのは、彼女自身も若い頃は急進的な思想の持ち主だったからでもあるだろう。結婚前のクラリッサは、自由気ままな元恋人のピーターや、小鳥のように軽やかで向こう見ずな不良少女サリーとともに、社会改革や政治、詩の議論に明け暮れていた。私有財産を廃絶するための団体を作ろうとしたこともある。特にピーターとクラリッサは一晩中でも語り合えるくらい息があった。しかし自由と独立を重んじ、すべてを共有することを重荷に感じたクラリッサは、地味なエリート男である今の夫を選ぶ。

本作はパーティの日の朝から夜まで、たった1日のことしか描かれていないが、憂鬱の種はいくらでも転がっている。たとえば、レディ・ブルートンの昼食会に、夫だけが招かれたこと。政治意識の高いレディ・ブルートンは、クラリッサのことを政治家の妻としては不出来だと思っている。それもクラリッサはおそらく察知している。クラリッサの憂鬱は、他者にも自分と同じように豊かな内面があり、決して相容れることはないのだと知っていることから来ている。他者が他者でしかないことに、クラリッサはひそかに絶望している。

◆ 他者について考えない若者の無敵感

クラリッサとは対照的に、17歳の娘エリザベスは希望に満ちている。家庭教師に「あなたの世代の女性には法律でも医学でも政治でも、あらゆる職業が開かれています」と言われ、わたしは病気の人が好きだから、お医者さんになろうかな、動物もよく病気するから農場経営もいいな、と無邪気に思いをめぐらす。続けて家庭教師が放った言葉、「わたし自身の人生はもうめちゃくちゃだけれど、でも、それはわたしのせいかしら?」(p.228)が示す絶望の重さに、エリザベスは気づかない。

クラリッサは敏感さに苦しむがゆえに、未熟な娘を含む鈍感な若者を愛している。若者はたとえ会話などしなくてもすばらしい存在だとクラリッサは思う。「叫んで、抱いて、振り回して、夜明けに起きて、子馬に砂糖をやって、かわいいチャウチャウの鼻にキスをして、なでて、体中じんじんさせながら走っていって、飛び込んで、泳げるんだもの」(p.308)。

若者が無敵感を抱けるのは、よく言われるように可能性がたくさんあるからだろう。加えて、人生経験の浅さゆえに、他者の意識まで想像がおよびにくいからでもある。半径3メートル以外の他人がみんな書き割りに思え、自分と自分が好きなもののことで頭がいっぱいでいられるのは、青春時代の大いなる特権だ。主人公カップルの恋のすれ違いにイラッとしている通りすがりのおじさんがモノローグを語り出したりしないからこそ、読者は少女マンガにときめくことができる。

◆ 相容れない他者の感情に共鳴できるつらさ

だが経験を積めば、おのずと自分と異なる他者が何を考えているか、ある程度想像がつくようになる。持たざる者が持てる者に抱く憎しみも、持てる者が持たざる者に向ける軽蔑も。病気による苦しみも、戦争がもたらす悲しみも。50歳を過ぎて可能性が乏しくなり、人生が決定的になってしまえば、他者との分断はより大きくなる。

上流婦人になったクラリッサと、家庭を持てない流浪のピーター、庶民と結婚して五児の母となったサリーは、パーティで再会しても、もはや昔のように一体にはなれない。サリーは「わたしたちはみな囚人」だと言う。だれともわかりあえず、一人ひとりが「独房の壁を爪でかりかり引っ掻く」(p.334)のが、人生の真実なのだと。

他者の感情や経験などを理解する力、いわゆるエンパシーはよいものとされているけれど、推察力が強すぎても苦しくなる。クラリッサの元恋人ピーターは、救急車の音を聞いて担架にのせられる自分を想像して涙し、「この多感さがおれの命取りになった」と思う。

◆死への共感と瞬間を愛す試み

パーティの席で精神科医から、患者である元軍人の自殺を聞かされたクラリッサも、面識のない青年の死の瞬間を想像する。「窓から身を投げた? 地面が急速に近づいてくる。鉄柵の錆びた先端が青年の体を打ち、ずぶずぶと貫く。いま地面に横たわった。脳内では、ドスン、ドスンという音が鳴り響いたことだろう。そして、絶命の闇が訪れる(p.319)」。青春時代の美しい関係が年月を経て失われたことを悲しむクラリッサは、青年は大切なものを失わないために死んだのだろうと想像する。

重要なことがある。でも、いくら重要だと飾り立てても、生活の中で汚され、曖昧模糊となり、堕落や嘘やくだらないおしゃべりの中で日々失われていくものがある。青年はそれを永遠に守りきった。死は挑戦。死は伝達の試み。人々は中心を求めながら、それが神秘の力によっておのれの手を逃れつづけるのを感じる。親密さが分解し、歓喜が色褪せ、おのれが独りであることを感じる。死には抱擁がある。(p.319)

それでもクラリッサは、生の瞬間を愛するために生活に没頭することを選ぶ。ふたたび冒頭を読みなおせば、背筋を伸ばして空気、花、樹々、馬車、手回しオルガン、飛行機、喧噪など街のすべて意識的に愛そうとしているクラリッサの姿が見えてくる。「わたしがこのすべてをいかに愛しているか、世界中の誰も知らない。この一瞬一瞬を……」(p.214)。クラリッサは自分を生につなぎとめるため、朝から花を買いに出かけるのだ。

50歳を過ぎて憂鬱になるのは、人生経験を積んで想像力が豊かになったおかげだと思えば、無理に前向きになることはないのかもしれない。未来ではなく、今を愛するために、クラリッサのように一人で朝散歩に出てみて、外の世界のきらめきに没頭してみよう。

 

◎『ダロウェイ夫人』ウルフ著、土屋政雄訳、光文社古典新訳文庫、2010年             

ヴァージニア・ウルフ(1882-1941)は英国の小説家、評論家。ロンドン生まれ。高名な文芸評論家である父親のレズリー・スティーヴンや、一家に出入りする作家、画家から影響を受けて育つ。兄弟と違い大学進学は許されず、家庭で教育を受ける。ウルフ13歳の時、母ジュリアが病を得て死去。その直後より精神を患う。22歳の時、父が癌で死去し、兄弟姉妹はブルームズベリー地区へ転居。兄の大学時代の友人らが集うようになり、後に英国社会の各界を牽引する人材を生んだ「ブルームズベリー・グループ」に参加。1925年に『ダロウェイ夫人』を、27年に『灯台へ』を刊行し、「意識の流れ」を叙述する方法を確立した。他の代表作に『オーランドー』『波』など。41年、自宅近くの川へ入水。享年59。(編集部)

 

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