あなたの悩み、世界文学でお答えします。

〈18〉夫にダメ出しばかりされて病んでいます
☞ ジョージ・オーウェル『一九八四年』がオススメ

「恋のツラみ」から「職場でのつまずき」まで、現代人のお悩みに、世界文学のあの作品この作品を紹介しつつ、キリッと答えていく堀越英美さんの好評連載。今回のお悩みは……

【お悩み】 夫にダメ出しばかりされています。職場の昇格試験の勉強をしたいから少々家事育児を手伝ってほしいとお願いしても「効率的にできないお前が悪い」「お前ごときを昇格させる会社なんかあるわけない」などと鼻で笑われます。傷つくことを言わないでと伝えても、「そんなことで傷つくのはお前が弱すぎるから。なぜ強くなるように努力しない。お前は頭がおかしい」と畳みかけられるだけです。優しい時もあるので愛はあると思いますし、ダメな自分が離婚してやっていく自信もありません。ただ、何も言わなくても「なんだその不満そうな顔は。謙虚さが足りない」などと怒られるので、夫の姿を見ただけで心臓がバクバクし、これが一生続くのかと思うとつらいです。

【お答え】『一九八四年』を読んで、人間を破壊する「ガスライティング」の怖ろしさを学ぼう

 

◆ ガスライティングという心理的虐待

人間を精神的に追い詰めて支配下におく心理的虐待の一種に「ガスライティング」というものがある。加害者が被害者の言葉を否定し続けることで、被害者が自分の認識を信じられなくなり、加害者の言い分を信じるようになるという手口だ。ガスライティングという名称は、1944年に公開されたサスペンス映画『ガス燈』に由来する。この映画では、夫がわざと物を隠して「お前には物忘れや盗み癖がある」と妻に指摘することを繰り返していくうちに、妻は自分がおかしくなったと思いこんでしまう。

ガスライティングは夫婦間だけで起きる現象とは限らないし、被害者が女性だけとも限らない。知的な人、強い精神の持ち主ならひっかからないというものでもない。

◆ 徹底的な監視、憎悪をテコにした支配

ジョージ・オーウェルの有名なSF作品『一九八四年』は、オセアニアという架空の全体主義国家を舞台に、〈ビッグ・ブラザー〉率いる党が国民を支配していく手口を描いている。いたるところに貼られているポスター「ビッグ・ブラザーがあなたを見ている」が宣言するように、オセアニアの国民の言動は「テレスクリーン」と呼ばれる双方向型の情報端末で逐一チェックされている。すこしでも反体制的な動きを見せた人びとは〈思考警察〉に摘発され、「法と秩序」の維持を担当する「愛情省」の地下に送られ、拷問を受ける羽目になる。国家に対して不満そうな表情をするだけでも、「表情犯罪」として告発の対象となる。

国民が連帯して反逆を起こさないよう、友情や愛情は否定され、生殖目的以外の性行為は認められない。堰き止められた感情は、憎悪で発散するよう仕向けられる。党員たちが日々見せられるのは、<人民の敵>への憎悪をかきたてる〈二分間憎悪〉というプロパガンダ映像だ。映像を見ている人びとは、怒号を上げ、テレスクリーンにモノをぶつけるなどして、大いに盛り上がらなくてはならない。最後にビッグ・ブラザーの落ち着いた顔が現れると、自己催眠状態に陥った人びとは「B・B!……B・B!」と唱える。こうした義務的な儀式を通じて、人びとは敵への憎悪にかりたてられて、進んで党を崇拝するようになる。

◆ 性欲の解放で反抗

当然、党首推しの応援上映のような茶番に内心うんざりしている国民もいる。それが本作の主人公、ウィンストンだ。彼は党が用意した敵の代わりに、〈反セックス青年同盟〉に所属する女性党員ジュリアへ憎悪を振り向けようとする。なぜかといえば、「彼女が若くて美しく、それでいて女を感じさせないからであり、一緒にベッドを共にしたいのだが、絶対にそうすることはないから」(p.27)だ。ウィンストンは抑圧された人間の本能の解放こそが、党への反抗になると考える。「地域住民連帯ハイキング」などの健全な遊びしか好まなさそうな若い女性は、ウィンストンの敵なのだ。ところがジュリアもウィンストンと同じく、表向き従順を装っているに過ぎなかった。

「純潔なぞ大嫌いだ。善良さなどまっぴら御免だ。どんな美徳もどこにも存在してほしくない。一人残らず骨の髄まで腐っててほしいんだ」

「それじゃ、わたしはあなたにぴったりね。骨の髄まで腐ってるもの」(p.193-194)

ウィンストンは内心をジュリアと共有したことで力を得、秘密の逢瀬を重ねるが、当局の監視網からは逃れられず、思考犯罪者として愛情省に送られる。ウィンストンは拷問にかけられるが、党は暴力でむりやり服従を誓わせるだけでは満足しない。ウィンストンの内心まで支配しなければ気が済まないのだ。そこで党が使うのが、現代でいう「ガスライティング」である。

◆ 頭がおかしいのはお前だと言い続ける

ウィンストンは拷問のあと、党を代表してウィンストンの拷問を指揮しているオブライエンと二人きりにさせられる。党が作り出した偽の歴史を心から信じていないウィンストンに、オブライエンはこう告げる。「精神が錯乱しているのだ。病状は記憶の欠陥」(p.379-380)。ウィンストンが確かに見た証拠を、オブライエンは「存在したことがない」とかたくなに否定する。党はすべてをコントロールするというが、わたしの記憶をコントロールできていないとウィンストンが反論すると、オブライエンはそれは君の頭がおかしいからだと突き放す。

「君がコントロールしていないのだよ。まさにそれだからこそ、君をここに連れてきたのだ。君がここにいるのは、謙虚さに欠け、自己鍛錬を欠いているからに他ならない。正気であるために支払うべき服従という行為を、君は断固拒否している。君は精神異常者、たった一人の少数派となる道を選んだのだ」(p.384)

オブライエンは指を四本出して、この指の数を心から五本だと思いこんで答えなければ無駄だとウィンストンに言い聞かせ、機器を使って身体的な痛みを与える。ウィンストンを痛めつけるのも休ませるのもオブライエンの思うがまま。やがてウィンストンは、オブライエンのことを自分の守護者のように思い始める。

しばらく彼は赤ん坊のようにオブライエンにしがみついた。肩に回された逞しい腕が奇妙に慰めになる。彼の感じていたのは、オブライエンは自分の守護者であるということ、そして、苦痛は外部から来るもの、どこか別の源からくるものであるということ、さらにまた、そこから救ってくれるのがオブライエンである、ということだった。(p.387)

◆ 虐待の合間の優しさで支配する

ガスライティングをする者は、被害者を孤立させ、一人ぼっちだと思わせたあと、優しさを戦略的に挟み込む。加害者はいい人間で、本当は被害者を愛しているのだと思わせるためだ。このような優しさを見せられた被害者は、自分を愛しているはずなのに相手が攻撃してくるのは自分に「ダメ」なところがあるからであり、悪いのは自分だと思い込む。日常的に痛めつけられているせいで、痛みを止めてくれたと感謝の念を抱くことさえある。自尊心を失った被害者は、確信をもってものを言う加害者が正しいと信じるようになる。

絶え間ない苦痛と恐怖と不安を与えられ、極度の恐慌状態に陥ったウィンストンも、確固たる自信をもつオブライエンに惹きつけられていく。ウィンストンは最終的に、党の前に崩れ落ちてビッグ・ブラザーを心から愛するようになる。

◆ ガスライティングの目的

ガスライティングをする者は、なぜそこまでして相手の主体性を失わせようとするのか。オブライエンは、自分たちの目的をこのように語る。

「(…)愛も友情も生きる喜びも笑いも興味も勇気も誠実も、すべてが君の手の届かないものになる。君はうつろな人間になるのだ。われわれはすべてを絞り出して君を空っぽにする。それからわれわれ自身を空っぽになった君にたっぷり注ぎ込むのだ」(p.396-397)

支配下においた人間の主体性を奪い、空っぽにしてから自分を注ぎ込みたい。それがガスライティングの目的なのだ。「権力の目的は権力、それ以外に何がある」(p.408)。

ガスライティングの怖いところは、耐え続けていると自分がすっかり破壊されかねないことだ。加害者の思想を注ぎ込まれて洗脳完了した人間が、加害者と一緒に別の被害者を痛めつけるようになるという話もよく聞く。顔を見るだけで心臓がバクバクするというのは、まだ自分が壊れていない証拠と言える。ガスライティングを受けていると自覚したら、まず自分がかけられた「弱い」「ダメ」「一人では生きていけない」といった呪いを解除する必要がある。

◆ ガスライティングの呪いを解くには

『一九八四年』には、拷問を受ける直前のウィンストンが、ヒットソングを朗らかに歌いながら洗濯物を干す労働者階級のおばさんのごつい身体に美しさを感じるくだりがある。性欲が党への反抗になると考えていたウィンストンは、それまで若い女性にしか目がいかなかった。だが、生まれてから死ぬまで労働と家事を休まず続け、それでも歌う心を捨てない名もなきおばさんこそが、本当に強い存在だとウィンストンは思う。党が抹殺することのできない生命力に、ウィンストンは崇敬の念を抱く。

客観的にみれば、一人で家事と労働を背負ってきた人間のほうが強く、支配欲を充たすために常に他人を必要とする人間のほうが弱い。自分は強い人間だと思えるようになったら、第三者に介入してもらう、あるいは一時的に夫から離れるなどして、一人でも生きていける人間なのだという自尊心を取りもどそう。その後の人生のことを考えるのは、呪いが解けてからでも遅くはない。

 

◎『一九八四年〔新訳版〕』ジョージ・オ―ウェル著、高橋和久訳、ハヤカワepi文庫、2009年

ジョージ・オーウェル(1903‐50)は英国の小説家、評論家。税官吏の息子としてインドに生まれ、8歳で帰国。奨学金を得てイートン校を卒業するも大学へは進まず、ビルマ(ミャンマー)の警察官に。植民地の実態を目撃し、罪の意識に苛まれ、パリ、ロンドンで窮乏生活を送る。その後、教師、書店員などをしながら、自伝的ルポルタージュ『パリ・ロンドン放浪記』(1933)を発表。1935年頃から社会主義者になり、36年、スペイン内戦に反ファシストとして参加、その実態などを『カタロニア讃歌』(1938)にまとめる。スターリン体制下のソ連を戯画化した『動物農場』(1945)を大戦後に刊行、一躍人気作家に。『一九八四年』は1949年の作品。他にエッセー集『象を撃つ』(1950)などがある。(編集部)

 

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