あなたの悩み、世界文学でお答えします。

〈20〉大学生ノリがしんどいです
☞ サリンジャー『フラニーとズーイ』がオススメ

「恋のツラみ」から「職場でのつまずき」まで、現代人のお悩みに、世界文学のあの作品この作品を紹介しつつ、キリッと答えていく堀越英美さんの好評連載。今回のお悩みは……

【お悩み】都会の偏差値の高い大学に行けばレベルの高い人たちに出会えると信じていたのに、大学生ノリの寒さにウンザリしています。真面目に勉強するより、要領よく単位を取って人脈を広げたり大手でインターンしたりするのがかっこいいという雰囲気。薄っぺらな知識で、作家やクリエイターをこきおろすサークルの人たち。「頭がいいのにあえてバカをやってます」という自意識で、ありふれた悪ふざけをする人たち。とにかく大学生の承認欲求が我慢ならないんです。いちばん我慢ならないのが、自分の中にも同じ承認欲求があること。いっそ大学をやめて、自分を導いてくれるすばらしい人に出会うために放浪の旅に出たほうがいいんでしょうか。

【お答え】『フラニーとズーイ』を読んで、「太ったおばさん」理論に出会おう!

 

◆「恵まれた大学生はうざい」という普遍的真実

1950年代に発表された『フラニーとズーイ』は、都会の恵まれた大学生を嫌う心情が、国や時代を超えて共通していることがよくわかる青春小説である。まず冒頭の1ページ目から、大学対抗フットボールの試合を女の子連れで観戦しようとする男子学生集団を皮肉る描写から始まる。

彼らの声はほとんど例外なく、いかにも大学生らしく独断的だった。まるで若者たちの一人一人が、自分の発言の番が来るたびに、その耳障りな声で、この世界を悩ませている複雑に入り組んだ何らかの問題を、さっさと苦もなく捌き、ものの見事に解決してしまいそうだった。そのような問題は、大学から遠く離れた世間の無知蒙昧な連中によって、幾世紀にもわたって、人の神経を逆なでするためかどうかは知れないが、ことさら手際悪く取り扱われてきたのだとでも言わんばかりに。(p.12)

口調がいけすかない、というだけでこの言いよう。大学生ノリが嫌いな人のための小説といっても過言ではないだろう。

◆ 元「天才子役」の苦悩

この小説の中心人物は、かつてメディアで早熟の天才キッズとしてもてはやされていたグラス家の7人きょうだいの末の二人、フラニーとズーイである。20歳のフラニーは名門大学で英文学を学びつつ演劇活動をしており、25歳の兄ズーイはテレビドラマの主演俳優として活躍している。知性も容姿も環境も、二人はかなり恵まれているけれど、それゆえ二人は気取った人々に囲まれてイライラし、周囲を受け入れられない自分にもイラついている。

フラニーは、冒頭の男子学生集団のひとり、レーンと試合観戦の前にデートをする。レーンはカタツムリとカエルの脚が食べられるカルチャー系最先端のレストランでおしゃれな美人とデートできるイケてる自分にほくほくしているが、レーンがA評価をとった論文について自慢し始めたあたりから、デートの雲行きが怪しくなってくる。フラニーが大人しく聞いているのをいいことに、イキリがエスカレートしていくレーン。我慢しきれなくなったフラニーは、かわいくて従順な女の子の演技をやめ、あなたの話し方はツルゲーネフを半時間こきおろす大学院生の臨時講師のようだと口にしてしまう。そして、自分は英文学の勉強そのものもやめたいということも。

「知ったかぶりの連中や、うぬぼれの強いちっぽけなこき下ろし屋に私はうんざりしていて、ほんとに悲鳴を上げる寸前なの」「私が言いたいのは、何もかもがどうしようもなくくだらないってこと」(p.33)

◆ 皆目見当違いな大学生たち

レーンは英文科の学生を一般化するなと釘をさすが、その正論をフラニーは受け付けない。勢いあまったフラニーは、すきあらば人脈自慢と女の子のえげつないうわさ話をして、イタリアで夏を過ごしたがる男子学生たちの凡庸さを列挙する。凡庸なのは男子だけではない。ニューヨークで雑誌社や広告代理店の仕事をする女子大生、自転車で郊外巡りをする女子大生。ベタさから逃れてボヘミアンを目指そうが、どうせみんな画一的になってしまう。誰もが個性的になろうとして、ベタに陥っているという嘆き。お笑いファンの「皆目見当違い」な分析や汚部屋や霊感で個性を出そうとするアイドル、コント師の不条理なフライヤーなどを「うざい」と切り捨てるウエストランドの漫才のようである。

フラニーの嫌悪は、自分自身の承認欲求にも及ぶ。フラニーは力を入れていた演劇活動も、舞台裏に会いに来た友だちとこれみよがしにキスするような周囲や自分のベタさにうんざりしてやめてしまっていた。

「私はただ、溢れまくっているエゴにうんざりしているだけ。私自身のエゴに、みんなのエゴに。どこかに到達したい、何か立派なことを成し遂げたい、興味深い人間になりたい、そんなことを考えている人々に、私は辟易しているの。(…)」(p.51)

自分や他人のエゴにうんざりしているフラニーのお守りは、巡礼するロシアの農夫について書かれた小さな宗教書だった。祈り続けることによって救われる無学な農夫の存在が、フラニーの救いになっていた。だがレーンにしてみれば、デートの相手がいきなりスピリチュアルな話を始めたとしか受け取れない。フラニーはデートの最中に気絶し、大学に行くのをやめてしまう。

◆ クリエイティブな人種も大学教授もうざい

実家に帰ったフラニーは、一日中居間のカウチで猫を抱いて寝そべり、母親がチキンスープを作り続けても口にしようとしない。そんなフラニーを見ても、父は「フラニーは蜜柑を食べたいんじゃないかな」(p.124)とふんわりしたことを言うばかり。心配した母は、早く大学に戻るよう説得してほしいとズーイに頼んだ。ところが若手俳優のズーイもフラニーと同じくらい他人の承認欲求と凡庸さを憎んでおり、業界人とぶつかってばかりいる。

「おまえはね、誰かをすっかり気に入るか、あるいはぜんぜん受け付けないかどちらかだ」(p.145)と母に言われ、ズーイはフラニーと自分はフリーク(見世物の異形人間)だと告げた。二人はインテリだった長兄と次兄に幼いころから高度な知識を仕込まれてきたが、長兄のシーモアは自殺し、次兄のバディーは世捨て人のような暮らしをしている。そしてズーイとフラニーは他人の俗っぽさを受け入れられず、家族以外の誰とも親しくなれない。だからズーイは母に言われた通りフラニーに話しかけても、教え諭すどころか、口から出るのは「クリエイティブな人種」(p.197)への悪口ばかりである。

ズーイの悪口に誘われるように、フラニーは大学や嫌いな教授の悪口を語る。「大学だって、この世の財宝を積み上げるための、愚かしく空虚な場所のひとつに過ぎない」(p.210)。あらかたフラニーの悪意を吐き出させたところで、ズーイは言う。システムに戦いを挑むつもりなら、素敵で知的な女の子のように撃つんだ、と。大学教授の髪型が気に食わないとか、個人を攻撃してなんになる。ズーイはフラニーが自分にそっくりだからこそ、フラニーの欠点がよくわかる。凡庸さやごまかしを避けようとする二人の自意識は、互いを傷つける方向に向かう。

◆「太ったおばさん」のために靴を磨き続けるということ

ズーイはズーイである限り、フラニーを傷つけてしまう。ズーイは演技力を駆使して、ある人物になりきることにした。二人はやがて、大好きだった長兄シーモアが生前、二人に言っていたことを思い出した。ラジオのアナウンサーや観客なんてバカばっかりなんだから靴を磨く必要はないと言ったズーイに、シーモアはこう諭したのである。「おまえは太ったおばさんのために靴を磨くんだよ」(p.288)。太ったおばさんとはだれなのか。ズーイはわからなかったが、なんとなく癌を患っていて、一日中バカでかい音でラジオを聴いているおばさんを思い浮かべた。なぜかそんな脳内おばさんのためになら、靴を磨き続けることができた。当時のフラニーも同じことを言われ、同じようなおばさんを思い浮かべていた。太ったおばさんじゃない人間なんてどこにもいない。誰もが太ったおばさんで、それこそが祈るべき対象である。そう聞かされたフラニーの顔に、微笑みが戻る。

後半半分近くを占めるズーイとフラニーの議論は宗教的な要素も多く難解で、解釈もいろいろだ。ただシーモアの「太ったおばさん」理論を、悩める大学生向けに解釈すると、こういうことなのだと思う。他人に自分を引き上げてくれる高尚さを期待して、それがないことに絶望するのではなく、他人の弱い部分に目を向け、それに対して自分が何を与えられるのかを追求するということ。自分を苛立たせる他人の痛さの背景にあるシステムに目を向け、個人ではなくシステムへの抗い方を考えること。そのために自分のスキルを磨くこと。最後のくだりで、一口も口をつけないチキンスープを作り続ける凡庸な母親の行為も、フラニーを傷つけないようにほかの人間になりきって語りかけ続けるわざとらしいズーイの演技も、すべて祈りに反転する。凡庸な行為の中に祈りを見いだせれば、他人や自分の凡庸さも許せるようになるかもしれない。

 

◎『フラニーとズーイ』サリンジャー著、村上春樹訳、新潮文庫、2014年

サリンジャー(1919―2010)は米国の小説家。ニューヨーク市生まれ。32年、名門校マクバーニー高校に入学するも1年後に退学。39年、コロンビア大学の創作講座で講師を務めるウィット・バーネットと出会い、バーネットが主宰する『ストーリー』誌にデビュー作「若者たち」を寄稿。42年から46年にかけて軍務に就く。51年、長編『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を刊行、一躍脚光を浴びる。53年、「エズメに」など旧作を収めた『ナイン・ストーリーズ』を刊行した後、ニューハンプシャーに隠遁。55年、『ニューヨーカー』に「フラニー」を、57年に「ズーイ」を発表。61年、この二作をまとめ、『フラニーとズーイ』として刊行。「ハプスワース16、 1924」を65年に発表後は沈黙を守り続けた。(編集部)

*本連載は今回で終了です。今年のうちに単行本として刊行する予定です。楽しみにお待ちください! ご愛読、有難うございました!!

 

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