■高柳昌行さんの弟子に
高橋 そうそう、このあとはどうなるの?
大友 高柳昌行さんという、一番大好きだった、憧れのアングラのミュージシャンに弟子入りするんですけど、当時、高柳さんには生徒がいっぱいいたんです。
高橋 何を教えていたんですか。
大友 ギターの基礎です。厳しくて、プロになる人しか受け付けないのと、結構、精神論みたいなのもあって、おっかなかったです。そこへ行ったら、当時、50人ぐらいいて、全員、俺より圧倒的に上手いの。一番上手かったのは渡辺香津美さん。俺が入ったときは、ちょうど出たあとでしたけど、渡辺さんは、4巻ある高柳さんのメソッドを3カ月でやったという伝説の人ですが、俺は1巻をやるのに2年かかった(笑)。
だから、「おまえは本当に遅い」と言われて。ほかの人はみんなプロを目指す人だから、すごく上手いんですよ。「俺、ほんとにダメかも」というぐらい挫折しましたが、結局、残っている人は数えるくらいしかいない。みんなやめちゃったり。まあ、高柳さんの教室はかなり極端だったので、関係者がいないか心配しながらしゃべっていますが、高柳さんの教室を出たあと、自分のアイデンティティーを確立しにくくなっちゃうんですよね。
これは、最近復刻された『解体的交感』(阿部薫、高柳昌行)というアルバムで、当時200枚しかプレスされなかった幻の名盤で、僕も高柳さんの家でしか本物は見たことがないレコードですが。これが、阿部薫と高柳昌行は高校生の頃に初めて見て、ものすごく影響を受けた音楽家です。いまでもこれを聴くと、血湧き肉躍りますね。
高橋 これは何年?
大友 1970年です。欲しい人は、買って聴いてください。もう1枚の『集団投射』も同じく70年で、渋谷のステーション70という場所でやっていて、それがいまどこだかわかりませんが、ステーション70をやっていた人は、後に大麻と爆発物取締法違反で捕まっているそうです。この頃、裸のラリーズのメンバーが赤軍で北朝鮮にハイジャックで行ったりとか、音楽と政治がかなり近くて、ちょっとそういうのに憧れもあったかもしれません。
高柳さんにしろ、阿部薫さんにしろ、間章さんにしろ、かなり政治的な言葉遣いも含めて、僕はそういうのにちょっと憧れたところもあったんだと思います。
■高柳さんのところを飛び出したわけ
大友 でも、高柳さんとはやがてうまくいかなくなっちゃうんです。僕は高柳さんにはすごく好かれていたんです、たぶん。こんな性格だったからか。でも、ギターは最高に下手でした。高柳さんがいつも、「おまえは、楽器が上手けりゃいいのにな」と。「その楽器でプロになるのか」と、ずっと言われ続けていました。
高橋 でも、ずっといたんだよね。
大友 ずっといたし、ずっとやっていたし、それでも上達はするんですよね。すごく遅かったけど。ゆっくり、ゆっくり上達して、いまでもちょっと上達しています(笑)。
高橋 ず~っと上達しているんだよね(笑)。
大友 そう、ず~っと、すごいゆっくりだけど(笑)。だけど、ものすごいコンプレックスもあるんですよ。あっという間に上手くなる人がいっぱいいる中で、たぶん、それが背景にありつつ、高柳さんが言っていることで、いくつか納得していないことが出てきちゃって、もめ出すんです。ちょっと話はながくなりますが、その前の段階からはなしますね。
それは、僕が少しでも音楽を上達しようと思って、ブラジル人にサンバを習いだしたんですよ。リズムを身につけようと思って(笑)。高柳さんに「おまえはリズムが悪い」と言われたのがきっかけで。
高橋 それでサンバを習いに行った(笑)。
大友 リズムの基本は何だと言われて、歩くことだと言われて。それで、最初は音楽に合わせて行進していたんですけど、つまらないと思って。でも、3年ぐらいやったんですよ。
高橋 歩いたの?
大友 ヘッドホンでコルトレーンの「チェイシング・トレイン」という16分のブルースが、ちょうど早歩きのテンポなので、3年間毎日、阿佐ヶ谷から高円寺まで歩くと16分だったので、必ず聴いて歩きました。だから、いま「チェイシング・トレイン」は完全に暗記しています。
それでリズムがだんだん身についたけれども、これは一人でやるよりも、一緒にやったら面白いかなと思って。でも、高柳さんはいいことを言うんですよ。「リズムというのは歩くことだし、ダンスだ。おまえ、ダンスをやらなきゃダメだ」と言われて、じゃあ、一番大好きなサンバがいいと思ってブラジル人のところに行ったら、すごく楽しいんですよ。ほぼ裸に近い女性たちが踊っていて。
高橋 ハハハハハ、それは楽しいよね。
大友 それで、浅草のサンバカーニバルに出て優勝しちゃったり。
高橋 ハハハハ。何か違う方向に走ってる。
大友 一方で、アングラなものに憧れているのに、もう一方ではジャカスカ、ジャカスカ、ジャカスカ……とやっていて、自分でも「何だろうな」と。
で、話は少しそれますが、当時、ジョン・ゾーンという人が日本によく来ていて、ちょっと音楽かけますね。ジョン・ゾーンがセロニアス・モンクのカバーをやったやつです。「シャッフル・ボイル」という曲で、すごく面白いです。
ジョン・ゾーンが日本に住みだしたんですよ。1985年ぐらいから高円寺にアパートを借りて、僕は阿佐ヶ谷だからすぐ近くで、憧れの海外のミュージシャンが近所に住むという状況は、普通あり得ないじゃないですか。それで、ジョン・ゾーンのアパートにも出入りするようになって、彼は僕の六つぐらい上なので、僕はチョコマカしている弟分みたいな感じで。よくアパートに行くと、ジョンはすごく特殊な音楽も聴きますが、歌謡曲も聴くわけ。坂本九とかかけながら、「大友君、このアレンジはいいよね」と言うので、それまでは、歌謡曲を聴いていたことをあまり言えなかった。前衛音楽をやっているところで「坂本九がいい」とは言えない雰囲気があるじゃないですか。マイルスなんか聴くと軟弱だと思われるという、あのメンタリティー。すごい素朴に、芸術と非芸術みたいな区別がどこかにあって、芸術に近いものほど立派みたいな考え方が、当時はどこかにあって、何となくヒエラルキーをつくっている中で、ジョン・ゾーンは、俺にとっては見事にそれをぶち壊す人で、僕はそのジョン・ゾーンに影響をすごく受けて、たぶん、高柳さんは寂しかったと思うんですよ。自分のことがすごく好きで来た、できの悪い、生意気なバカが、ジョン・ゾーンだったり、サンバスクールだったりと、ほかのところに出入りしだすのが……。
高橋 できの悪い子ほどかわいいからね(笑)。
大友 そう。いま考えるとよくわかる。それで、僕がそうやってほかのところにも出入りしだしたこともあって、高柳さんもそれが面白くなかったのもあったろうし、僕も面白くなかったんです。もういちいち売りことばに買いことばみたいになっちゃって、どんどん喧嘩になっちゃって、僕も生意気だったので、高柳さんの言ったことにカチンときて、ものすごい長文の反論を書いたりして。
高橋 ああ、その辺が時代ですよね(笑)。
大友 最終的に、絶縁状みたいなのを書いて持っていって。もう、バカですね。これで、いつ暴力沙汰が起こってもという覚悟でやめましたけど、そういう自分も含めて、ほんとにそれが大きなトラウマというか、「やっちゃった」という……。
そのことをひしひしと感じたのは、オウム真理教の事件を見たときに、あそこに出てきてしゃべっている人たちの言葉が全部わかるんです、気持ちが。なぜあんなことをしているか。もし自分が音楽じゃなくて、もし、ちょっとインドとか宗教にかぶれたら、入っていたかもしれないなと。高柳さんは幸い、「サリンを撒け」と言わなかったから人殺しをしなかったけど……。
高橋 危なかったよね。
大友 危なかった。高柳さんは、そんなところはないんだもん。「ノイズだ~!」と言っているような人だから。音楽だから。そんな暴力的な人では実はなかったけれども、自分がそうなっていたんですね。
高橋 ああ、そうか。大友さんのほうが危なかったわけだね。
大友 そうそう、俺のほうが危なくて、だから、高柳さんのところをカルト化したのは、いま考えると俺なんですよね。
高橋 そういうもんだよね。一番の弟子が先鋭化させちゃうんだよね。キリスト教もそうだからね。
大友 そうなんですよ。本人は結構気のいいオッチャンだったりするかもしれない、キリストも。
高橋 教祖は、実はアバウトだけど、弟子がものすごく信じちゃうから。
大友 わりとアバウトで、人間的な魅力もあって、弟子はすごく信じちゃうと、それが狂信的になっていくという図式の、すごいミニチュアのバージョンを俺がやった感じかな。この本でもその辺りまで書くつもりだったのですが、書けなかったですね。
高橋 急にヘビーになるよね。
大友 だから東京に出た辺りで書けなくなって、本は東京出る前でやめました。