ぼくはこんな音楽を聴いて育った・東京編

第10話 世界は知らない音楽で満ち溢れている
飯島晃、そしてメルセデス・ソーサとビクトル・ハラ

飯島晃さんの代講を受け、そして民族音楽との出会いへ。

  1981年1月、高柳さんの高弟の飯島さんから突然電話がかかってきた。

 高柳さんが倒れたのだ。

 食道静脈瘤破裂で緊急手術。生死も危ぶまれる状態だった。レッスンに通いだして数カ月。ダメはダメなりに多少はレッスンについていけるようになり、これならなんとか続けられるかもと思えるようになった矢先のことだった。何年も通っている古株の生徒たちが病院に集まっているようだったけど、僕らぺえぺえは見舞いに行くこともできなかった。四畳半の部屋で、ただ心配するだけだ。

 

 遡ること数日前、オレは大学のジャズ研をやめる決心を部長の渡辺先輩に伝えたばかりだった。次年度の部長の打診まで受けていたのにだ。

「渡辺さん、高柳さんのところで本格的に勉強するんで、すいません、部長の話、やっぱりお断りします。ジャズ研もやめさせてください。このままだとオレ、ここにいるの楽しすぎて、なんで東京に出てきたんだか忘れてしまいそうなんです」

 せっかく度胸決めて決心したのに。頭の中が真っ白になった。

 

 実は、このあたりのこと、記憶を呼び覚ますために、当時カレンダーに書き込んだメモみたいなもんを解読したのだが、う~ん、半分くらい書いてあることの意味がわからない。汚すぎて読めない文字もあるけど略号が多すぎて。「のみ」とかなら皆で呑みに行ったとか、「バ」ならバイトってあたりはわかるんだけど、「11:30」とか「車」とか「テ」とか「仏」とか「三」とか全然わからん。ん、たくさんいるガールフレンドのことだろうって? まさか、まさか。二十歳そこそこのオレには残念なくらい色っぽい話はなかった。周りを見渡しても、そんな奴はいなかったなあ。

 あ、もしかしたら「車」は自動車学校のことかも。そういえばこの時期、西荻の日通自動車学校ってとこに免許とりに通っていたのを思い出した。ここの教員室から、休憩時間のたびに下手くそなベンチャーズの曲が聴こえてきたことだけはやたら覚えてるんだけど、あれ先生たちのバンドだったのかな。で、え~と、「テ」は多分テストだな。「テ」のあとに「仏」って書いてあるからきっとそうだ。これ、フランス語のテストだ。でもフランス語の授業なんて一度も出た記憶がないし、テストを受けた記憶もない。もしかしたら一応テストの日程をカレンダーに書いておいただけなのかな。だとすると、一応は大学に行こうって気持ちだけはあったのだろうか。

 それにしても「のみ」の記号がやたら多いなあ。なにやってたんだ、オレ。今は完全な下戸だけど、確かに当時はよく呑みに行っていたのだ。めちゃくちゃ弱かったけどね。で、カレンダーによると、当時の大友くんはやたらと誰かの家に泊まっているっぽい。もちろん野郎の家だ。そして、やたらうちにも誰かが泊まりに来ているっぽい。もちろん全て野郎だ。今は、もう人んちに泊まるのとか、誰かが泊まりに来るのとか面倒臭くて気を使うしで苦手なんだけど、そういえば40歳前までは、日本だけじゃなく、海外でも、随分いろんな家に平気で厄介になったし、雑魚寝も平気だった。ツアー先では初対面の人の家にもずいぶん泊めてもらったし、当時ヨーロッパの各所にあったスクワットハウスにもずいぶん世話になった。その頃はホテルより楽しくてお金もかからなくていいくらいに思っていたけど、今はどんなに狭くてもいいからホテルのシングルルームの方が気楽でいいや。年齢とともに、つるむのが苦手になってきたというか、一人でほっといて欲しくなったのかな。どうせそのうち、一人であの世に行かなきゃいけないわけだから、徐々にその準備でもしているのかね。

 

 一週間後、どうにか高柳さんの容態が落ち着き、授業の代講は高弟の飯島さんがやってくれることになった。内心ホッとした。高柳さんを心配してホッとしたのもあるけど、とりあえずレッスンが続くことにホッとしたのだ。じゃなきゃ、また元の生活に逆戻りだもん。オレは何者かになりたかったんだと思う。なんの実力も、見込みもなかったのに、努力もたいしてしてないくせに、野心だけはあったのだ。高柳さんの容態を心配する以上に自分の人生をクヨクヨと心配する程度の器の小さいガキだったのだ。

 代講を務める飯島さんのフルネームは飯島晃。高校生のころ渋谷のジァン・ジァンで見た高柳さんの大爆音ユニット「高柳昌行ニューディレクション」で、高柳さんとともに爆音ギターを掻き鳴らしていたのが飯島さんだ。以前この連載でも書いたので、覚えている人もいると思う。のちにニューディレクションとは似ても似つかない独自の音楽を篠田昌已や近藤達郎、向島ゆり子らとスタートし、大名盤『コンボ・ラキアスの音楽帖』を残し、三十代で夭逝してしまう伝説のギタリストにして作曲家。でもこの時は、まさかこんなに早く逝ってしまうなんて思ってもいなかった。飯島さんには、その後、言葉に尽くせないくらいお世話になり、なのに、ここに書けるかどうかわからないけど、書けないかもしれないけど、高柳さんをめぐって様々な、本当に様々な屈折した出来事があって、それでも90年代中頃、亡くなる直前には何度か共演していて……。高柳さんのことを書くには、でもやっぱり飯島さんのことも書かなくては。書けるだけのことは。

 

 飯島さんのレッスンが始まった。高柳さん同様、いままでと変わらずメトロノームと鏡に向かいながらカチカチと基礎練習の日々だ。でも、飯島さんのほうが、高柳さんよりずっと細かくて厳しかった。ただでさえ進みの遅いオレは、今まで以上にさっぱり進まなくなってしまった。あっちを直せばこっちがうまくいかずの行ったり来たり。なのに、ずうずうしいと言うか、なんと言うか、オレはなんだか飯島さんになついてしまったのだ。飯島さんのライブの手伝いをしたり、そのまま飯島さんの家に泊めてもらったり。

「大友くんはさあ、もうちょっとギターがちゃんと弾ければ言うことないんだけどなあ」

「本当ですか、ありがとうございます!」

 いやいや、そこ褒められてるんじゃないから。でもオレは万事がこんな調子だった。あるときから自分の欠点はこのポジティブなところかもと自覚したくらい。

 高田馬場にあった飯島さんのアパートは鉄筋で風呂つき、素敵な奥さんと暮らしていた。木造四畳半風呂なし一軒家という謎の小屋に住んでいたオレには、まずは風呂に入れることがありがたくて、行くと必ず風呂を借りていた。やっぱ、どう考えてもずうずうしいな、オレ。でもここに行く一番の目的はもちろん風呂じゃなくて、飯島さんの話を聞きながらレコードを聴くことだった。今まで聴いたこともないような音楽がここにはたくさんあって、最高に楽しかったのだ。当時既に飯島さんと共演していた若き日のフレッド・フリスの音源やら、ヨーロッパの即興演奏のレコードはもちろんだけど、その辺ならオレも知ってるしなんとなくは分かるんだけど、例えば当時軍政だったタイの中で秘密裏に反体制音楽をやっていたバンド、カラワン楽団のカセットとか、チリのビクトル・ハラやビオレッタ・パラ、アルゼンチンのメルセデス・ソーサといった新しいフォルクローレ運動の音楽とか、このあたりになると、どれもこれも、全く知らないものばかりだった。軍事政権に拘束され、拷問をされても歌い続けたといわれるビクトル・ハラの話も、飯島さんに初めて聞かされて、世界には今でもそんな場所があるのかと、そんな音楽家がいるのかと、ただただびっくりしながら話を聞いていた。音楽だけじゃない。韓国の軍事政権の中で戦う詩人金芝河の話とか、当時岩波新書から出ていた「T・K生」という匿名のレポーターによる軍事政権下の韓国のレポート『韓国からの通信』や、本多勝一なんかの本も飯島さんに読むように勧められた本だったなあ。飯島さんは、ただ音楽をやるんじゃない、それを支える思想が大切で、だから今世界がどうなっているのか、日本が、これまで何をしてきたのか、今何をしているのかを知る必要があるんだってことをいつも言ってた。なんとなく高柳さんと言っていることは似ていたけど、でも、微妙に違うのは、高柳さんからはカラワン楽団の話が出ることはなかったけど、飯島さんは、むしろそっちの話が中心だったというか、高柳さんはどんな話をするときでも常に「自分にとってのジャズ」と「プロフェッショナルの音楽」って視点が基本にあったのに対して、飯島さんは、それとは違う可能性を探っていたんじゃないかって気がするんだけど、違うかな。

 世界のことや政治の話は、オレには難しくてわかったようなわからないような感じだったけど、オレの心を鷲づかみにしたのがメルセデス・ソーサの歌声だった。一発で虜になったと言ってもいい。自分でもそのあたりの音源をあさるようになっていった。当時は中南米のレコードなんてほとんど輸入されてなくて、東京で買えたのは唯一恵比寿にあった雑誌社「中南米音楽」の玄関先にある小さなレコードコーナーくらいだった。月刊で『中南米音楽』という名前の雑誌も出ていて(今は『ラティーナ』って雑誌になっている)、オレはここに通っては、メルセデス・ソーサやビクトル・ハラのレコードをせっせと手に入れた。この時手に入れたソーサの初期、主に60年代の音源を集めたベスト盤は今でもオレの愛聴盤で、とりわけ最初に針を落としたA面1曲目の「La Pomena」は人生史上最高に好きな1曲。といってもオレの場合は人生史上最高の1曲はいくつもあるんだけどね。でも、本当に本当に大好きな曲で、いまだによく聴くし、これを聴くと、飯島さんのことや、誰もいない狭い四畳半で一人で音楽を聴いていたときのことを思い出す。ソーサの歌声だけでなく、アコースティックギターの伴奏もその音色も最高なら、ボンボと呼ばれる低音の太鼓が入ってくるところの空気が動きだす感じとか、もう最高すぎて、いつ聴いてもうっとりしてしまう。

 

 たぶん、これがきっかけになったんだと思う。世界には自分の知らない音楽がたくさんあるというか、自分が知っている音楽は、世界にあまたある音楽のほんの一部でしかないことに気づくことになり、もっともっといろんな音楽を聴きたくなり、そんな音楽のことを知りたくなってきたのだ。今ならネットですぐに世界のいろいろな音楽に辿り着けるけど、当時はそうはいかない。NHK-FMの「世界の民族音楽」に度々出てきて多少は読みかじってきた民族音楽学の小泉文夫さんの本をあさるところからはじめ、実際に小泉さんの講義にもぐったり、講演会に通ってみたり。本と違って実際の講義や講演会なら音源も流してくれるし、なにより話が本当に面白かった。そうこうしているうちに、自分でも民族音楽学を学んでみたいなと思うようになっていった。そんなときだった。ジャズ研の先輩の渡辺さんがびっくりするような情報をもたらしくれたのだ。

「民族音楽のゼミなら明治大学にもあるよ。商学部だけどな。オレもそのゼミとってるから先生に紹介しようか」

 これが民族音楽の江波戸昭先生に会うきっかけだった。

 

 

 

 

 

 

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