単行本

絶望を言葉によって塗り替える

PR誌『ちくま』2018年3月号より詩人の文月悠光さんによる西加奈子さんの新作短編集『おまじない』への書評を転載します。ひとにとっての「おまじない」という言葉の意味に着目した詩人ならではの書評をぜひご覧ください。

「女の子なのにやめなさい」「それじゃ女として幸せになれないよ」――耳に痛い言葉を思い起こす。母親から、過去の恋人から、あるいは自分自身から幾度となくそれを投げかけられた。「言葉って惨いな」と思う。温かい「言祝ぎ」になる反面、生き方を縛る「呪い」にもなるのだから。
 本書は、女性の「生きづらさ」を切り取った八篇から成る短篇集。性被害に遭った少女、「子どもがかわいそう」という声にとらわれた妊婦、自ら「ブス」と称してピエロ役に徹するキャバクラ嬢など、語り手は全員女性である。
 家族や身近な人の期待に敏感なあまり、彼女たちは悩む。自分は「女の子」としてどうなのか。娘として、母としてはどうか。ふさわしい、誰かに選ばれる存在といえるのか。社会は次々に完璧な女性像を提示する。「娘」の型、「妻」の型、「母親」の型……。それらに縛られるあまり、型通りに生きられない自分を否定してしまいがちだ。
 自らの妊娠を知った「マタニティ」の語り手は、「母親的母親」になれない自分に激しい不安を覚える。やがて、ある言葉をきっかけに、〈下衆な人間〉のまま母になる、という決意を固めていく。本書の語り手たちは、型そのものを切り捨てたりはしない。自分らしさを求めた結果、むしろ果敢に型へ飛び込んでいく。
 特徴的なのは、彼女たちの変化のきっかけが「おじさん」の一言であること。異国のバーで声をかけてきた男、ワイドショーでコメントする元サッカー選手などなど。彼らの発する言葉は、「祈り」や「言祝ぎ」と呼ぶにはあまりに何気ない。ささやかな「おまじない」のようだ。
 アラスカを旅する二人の女性ケイとトーラの物語「オーロラ」が印象的だった。ガソリンスタンドに居合わせた猟師らしき老人から、ケイは「戻って来るのはあんただよ」という謎めいた一言を告げられる。その言葉に、彼女はトーラとの未来を予感して、激しく心揺さぶられる。
 おじさんの一言に変わっていく彼女たちの気持ちが、私は理解できる気もしつつ、実は少し解せなかった。その言葉は、彼らが「女の子」の外側にいるからこそ言えるもので、かつ彼女たちを性的な対象として見ない(つまり枯れている)ことが前提だ。その前提に頼り過ぎているのではないか。悪く言えば、これはファンタジーの「おじさん」像に過ぎないのでは、という違和感が最後まで胸の奥に残った。
 仮に私が「ドラゴン・スープレックス」の主人公のように、「おまじないはお前を呪ってへんねん。お前のすべてもお前を呪ってへんねん」「お前がお前やと思うお前が、そのお前だけが、お前やねん」とおじさんから畳みかけられたら、そのまっすぐな言葉に打たれながらも、「うるせえ。外側にいるお前に何がわかる?」と心の中で反発してしまうだろう(偏屈で申し訳ない)。しかし、それこそ私が「おじさん(男)はかくあるべし」という型にとらわれている証なのかもしれない。
 もちろん「おじさん」の存在も一括りにはできない。本書にも様々なおじさんが登場する。品のいい祖父を演じるおじさん、苺農園に心血を注ぐおじさん、ものを丁寧に燃やすおじさん……。彼らは自分の弱さを認め、それを晒すことをいとわない。おじさんが女の子を救ったってよいではないか。「男」の役割から降りたおじさんの弱さと、女性の寄る辺ない不安が響き合っていく。
「燃やす」の主人公は、自分を苦しめた母親の言葉を燃やしてほしい、と用務員のおじさんに希う。「残念ながら、言葉は燃やすことは出来ません」と彼は答える。逆に言えば、「言葉は残る」ということだ。
 初篇「燃やす」と、最終篇「ドラゴン・スープレックス」は共に、葬式の場面で締めくくられている。人はいなくなっても、言葉は残る。誰かの言葉に縛られる絶望は、誰かの言葉に守られている希望に替えていけばいい。本書の物語は、そう力強く告げている。