ぼくはこんな音楽を聴いて育った・東京編

第一話 東京生活のはじまりはじまり
1979年4月 遠藤賢司「夢よ叫べ」、オーネット・コールマン「ブルース・コノテーション」

新連載です! 大友良英さんが福島から東京に出てきた1979年4月です。『ぼくはこんな音楽を聴いて育った』の東京編、いよいよスタートです!

 1年ぶりのご無沙汰です。ガキの時分から高校を出るまでを描いた『ぼくはこんな音楽を聴いて育った』もおかげさまで本になりまして、どういうわけかそこそこ好評につき、つづきも書けってことになりまして、こうしてまた連載を始めることになりました。

 今回は故郷の福島から東京に出てきた1979年の4月からってことなんですが、これがなんと申しますが、どうにもパッとしないんです。えっ、前回だって十分すぎるくらいパッとしてないだろって。まあ、そうなんですが、でもまだガキの時分は歌謡曲があったり、福島に転校してロックに夢中になったり、そのうちわけのわかんないフリージャズに出会ったり、キャバレーバンドで大失敗をしたり、おまけに何度も初恋をしちゃあしくじったりと、え、初恋は一回きりだろうって、いやいや、いろいろあって、わたしの場合は複数回、まあ、この辺は前回の本、ぜひ読んでやってくださいな。というわけで情けないなりに楽しいドラマがあったわけですが、東京に出てきてから以降ってのは、なんというか、パッとしないだけじゃなく、この先アングラの泥沼にはまっていくあたりは、陰々滅々どうにもシャレにならないような気がしちゃって……。でも、このこと書かなくちゃともずっと思っていて、そいつをいったいどう書いたらいいもんか、当時のおいらのメモがいっぱい書かれたダイアリーを眺めながら途方にくれること数カ月。そんなときに敬愛する純音楽家エンケンこと遠藤賢司さんの訃報がはいりまして、エンケンさんは70歳で、おいらとは一回り違い。不滅の男にして最高の兄貴分だと思っていた人が、こんなに早くあっちの世界に行ってしまったのはさすがにショックで、柄にもなく自分の残りの人生のことを考えるようになっちゃいまして、だったら、四の五の言わずに生きて頭が動いているうちに、パッとしなかろうがシャレにならなかろうが書くべし、書いておくなら今しかないなって思うようになった次第なんです。

 前置きが長くなっちゃいました。エンケンさんの「夢よ叫べ」を聴いて、襟を正してPCに向かわせてもらいます。例によって、ここに出てくる話は、記憶違いや思い違いも多々あるやもしれませんが、一応わたしの中ではほぼ事実です。そして登場人物ももちろん実在の人物なんですが、さすがにやたらに書くと怒られそうなので、すでに世間に知られた人以外はなるべく変名にしますので、どうか怒らないでください。

 ということで、やっと書く決心がつきました。

 『ぼくはこんな音楽を聴いて育ったーー東京編』のはじまりはじまり~!

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 1979年、親父の運転する車で上京したのは3月も末、いや4月に入っていたかな。最初に住んだのは京王線代田橋駅から徒歩7分の6畳一間風呂なし2万5千円。これでも台所とトイレがついているだけ贅沢だったと思う。当時上京してきた学生ってのは、だいたいは四畳半一間トイレ玄関共同で1万円代のところに住んでいたし、中には3畳一間9000円なんてアパートもあったくらいだ。それにしてもなんで代田橋を選んだのかな。中央線沿線、それも、友部正人の歌に出てくる阿佐ヶ谷になんとなくの憧れがあったのに、よりによってなんも知らない代田橋を選んだってのは、う~~ん、なんでだか全然思い出せない。明治大学から徒歩圏内ではあったけど、オレが通ったのは明大前の明治大学じゃなくて御茶ノ水のほうだったし……。なんか、オレ、一番行きたいところにストレートに行くのに気がひけるクセがあって、この性格は後々の人生選択にも大きく作用するんだけどね。

 部屋にはシンプルなオーディオセットとカセットテープやレコード、それにオープンリールやギターなんかの楽器類、当時はヤマハのフルアコとエピフォンのセミアコを持っていたっけ。それから、そうそう、懐かしのビニールロッカー。ビニールロッカーっていまの人はわかるかな。薄っぺらなビニールで出来た身長くらいの高さの安普請な洋服ダンスなんだけど、2000円くらいだったかな。ビニールにはお洒落風のアブストラクトなデザインだったり、微妙な花柄だったりの印刷がされていて、当時はどこの家にもあったんだけど、あ、ネットで調べてみたら、今もありました。昭和風のやつもセカンドハンズショップで売ってますねえ。服はというと、ジーンズが二本、シャツやセーター少々だったんで、このビニールロッカーもスカスカだったなあ。レコードは当時数十枚くらいは持ってたかな。カセットはもっと沢山あった。なにしろレコードは高くてそんなには買えなかったんで、だいたいは誰かに借りたレコードやらFMで流れた音源やらをカセットに入れて聴いていた。自分で買ったレコードも傷つけたくなくてカセットに入れて聴いていたっけ。持っている音源の6割がジャズでその中の三分の一が即興系、3割がロック、残りはポップスや歌謡曲に現代音楽。他には半田ごてや工具類、抵抗やらコンデンサやらの電気部品が少々、それに本が十数冊ってところだったかな。もちろん小林麻美の「マイピュアレディ」のポスターもね。初めての一人暮らしは、寂しいとかよりも、なんだかとっても自由な感じがして、まずは嬉しかったのだ。

 入ったのは明治大学の二部文学部で、学科は多分文芸学科だったと思う。「だったと思う」なんて書いたのはですね、実は、入ったっきり、ほとんど行かなかったのだ。文学なんてふれたこともないのに、なんでここを受験したかといえば、経済とか政治学とかにはどうも興味がもてそうになかったし、理系は勉強してなくて全く無理。音楽やりたくて東京に出てきたのに、そもそも音大とかに入れるわけもなく、そうなると文化の香りが多少はして、偏差値的にも入れそうな二部文学部でいいかって感じだった。タモリが早稲田大学に行っていたこともあって、そこの社会科学部も受けたけど、こっちは落ちて、結局受かったのはここだけだった。あ、話があとさきになりますが、オレ、自分の中では、はっきりとジャズをやりたくて東京に出てきたのでした。「自分の中では」って書いたのは、こんなこと自信がなさすぎて、親にも友達にも誰にも言えなかったのだ。言えなかったけど、東京に出ないことには何も開けないかもくらいに思っていて、だからとりあえず大学に行くってことにすればいいやみたいな、もう本当に情けない感じの決断で、まあ、でも今考えると、まわりからは見え見えだったとは思うんだけど……。

 そんなわけで、そもそも勉強する気で出てきたんじゃないから、入学式には出なかったような気がするなあ。出たのかな? でもまったく覚えてないや。そういえば高校の卒業式も出てなくて、だいたい卒業式の日には出席日数が足りなくて卒業できなかったのだ。で、皆が卒業したあとの春休みに学校の図書館に通って追試を幾つか受けてかろうじて卒業。すいません、本当にご迷惑おかけしました。

 大学の入学式は出なかったけど、それでも大学の最初の授業というかオリエンテーションには出たんです。なんで覚えているかというと、いや~怖かったのよ、このオリエンテーションが。最初は授業の履修の仕方の説明とかそんなのをやったんだけど、それはまあ何の問題もなくてですね、怖かったのはそのあと。説明が終わると先生はす~~っと消えて、突然ヘルメットを被った学生が数名どやどやと入ってきて教壇を占拠して、でかい声で演説みたいなのを始めやがんの。これが、前にも書いた高校に入った時におっかない応援団にしごかれたあのシチュエーションにそっくりで、ものすごくマッチョな感じがして、ここでもまた硬派なことやんなきゃいけないのって感じで。演説は三里塚闘争に参加しろみたいな内容で、今になって三里塚のドキュメンタリー映画の音楽をやることになるなんて当時はまったく想像すらつかず、というか三里塚の闘争がなんであったのかの意味も全然知らず、すいません、アホだったのよオレ。そんなことより革命だかなんだか知らないけどヘルメット被った暴力的な感じが苦手で、でも後々自分も、タイプは違うけど音楽の世界の中で先鋭化し、カルトのようなもんをつくっては挫折してくことになるわけだから、人間どうなるかわからんもんです。シャレにならいってのはこのことで、いずれこの連載でも書くことになると思うけど、でもまあ、少なくともこの頃はマッチョな感じとか「革命」とか叫ぶのは苦手で、だから彼らのアジ演説の途中でささっと気づかれないように抜け出しちゃいました。それ以来、授業にはほとんど出なかったのだ。

 「あ~、もう、びっくりした~」

 でもまあ、高校と違って、嫌なら行かなきゃいい。そんなこともなにもかも自分で決めていいってのが、とても精神衛生上良かったなあ。誰にも怒られないしね。でも、なんでも自分で決めていいってなると、オレの場合は際限なくルーズになってしまって、そのツケは後々払うことになるんだけど、そんなことより、お腹も空いたんで学食へ。そうそう、あの学食「師弟食堂」って名前で、当時は明治時代に建てられた古い石造りの洋館のような校舎がそのまま使われていて、その石造りの本館の地下にこの食堂があったのだ。ここで150円のカレーライスを食べているとですね、なんか聴こえてくるんですよ、アルトサックスの演奏が。しかも、あれ、あれ、あれ! このメロディ、オーネット・コールマンの「ブルース・コノテーション」じゃないの。さすが大学、高校とはわけが違うわい。

「すごい、すごい、すごい!」

 オレはカレーライスの皿を左手に、スプーンを右手に持ったまま、ふらふらと音の出ている方向に行ってみたのだ。そこにいたのはフチなしの丸メガネに長めのマッシュルームヘア、ボロボロのブーツカットのジーンズにネイビーチェックのシャツをラフに着た青年で、師弟食堂に通じる地下通路のところで遠い目をして一人壁に向かってオーネットの曲を延々と練習している。その音は石造りの地下通路の中で何重にも響き合って、ただの練習なのに、ものすごいアルトソロの即興にも聴こえ、おまけに、その姿は、とても学生とは思えないほど様になっていて、オレはカレーライスの皿を持ったまま、ときどきカレーライスを口に運びながら、アルト青年の視界に入らないよう斜め後ろの壁にもたれかかって、彼の練習をずっと聴いてました。

「あ、あ、あの~、す、すいません、ジャズ研の方ですか」

 練習を終えてアルトをケースにしまっている青年に、オレは恐る恐る声をかけてみた。これが東京に出てきて初めて他人に声をかけた瞬間。後々毎日のように出入りすることになる明大ジャズ研との出会いでした。

関連書籍

良英, 大友

ぼくはこんな音楽を聴いて育った (単行本)

筑摩書房

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