ぼくはこんな音楽を聴いて育った・東京編

第7話 いもやの天丼と最初のバンド
ロリンズにコルトレーン、なぜかクリームと林くん

大学2年の大友青年。新入生歓迎野外ライブのステージへ! と、ところが、どっこい!?

 名ばかりの大学2年になったオレは、コントーションズにぶっ飛んで、自分の音楽をムクムクとやりたくなり、初めてのバンドをテナーサックス吹きの林と組んだのだった。林とは年がら年中つるんでいた。ローランド・カークやガトー・バルビエリを聴いては「すげえ、すげえ」とうなり、コントーションズを聴いては「これだ!」と大騒ぎし、バイトもバンドも一緒のことが多くて、おまけに実家に帰りたくなかった林は、いつもオレんちに泊まりに来ていた。ここまでつるんでいると、セックスしてないだけで、もうパートナーっていってもいいくらい、そのくらいいつも一緒だったのだ。林はソニー・ロリンズやジョン・コルトレーン、そしてなぜかクリームの大ファンでもあり、ロリンズのアルバム『サキソフォン・コロッサス』のA面1曲目の「セントトーマス」のロリンズのソロやマックス・ローチのドラムのフレーズやら、『ライブクリーム』のクラプトンのアドリブを完全に覚えていて、いつもこれに合わせて鼻唄を歌っていた。コルトレーンのアルバム『ブルートレイン』」のA面2曲目「モーメンツ・ノーティス」もやつがユニゾンで歌える曲で、

「大友、このテーマのリズム取れるか?」

 なんて言いながら

「大友、リズムだよ、何をやるにしろ。ジャズだろうがコントーションズだろうが、リズムが土台。ギターもサックスもリズム楽器だからな」

 リズムの良くなかったオレに、リズムとはなにかを最初に仕込んでくれたのは林だった。ジャズをひとしきり聴くと、寝る直前にはきまってクリームのライブ盤をかけてジンジャー・ベイカーとジャック・ブルースのリズムにクラプトンのギターがどんなふうに絡んでいるのかのリズム解説をしてくれるのがお決まりのコースだ。

 

 コントーションズもいいけど、まずは自分たちのジャズをやりたいなって感じで、林の主導でローランド・カークやマイルスなんかの曲をやるバンドを始めることになり、これがオレの最初のバンドだった。メンバーはもう一人仲の良かった明大のビッグバンドでテナーサックスを吹いていた広瀬、ドラムがジャズ研の名城で、ベースは山梨からジャズ研にときどき遊びに来ていた名城の幼馴染みのリョウジンの5人に、バイト先が一緒でロックギターをやっていた軽音楽部のキサキさんも時々手伝ってくれた。沖縄から出てきた名城のアパートは当時では珍しかった風呂つきで、お金がないときは風呂を貸してもらいにいったりしたなあ。このバンドは、なんだかんだ数カ月くらいは続いたかな。ジャズと言っても皆でローランド・カークの歌を歌ってみたり、ギターを歪ませてぎゃんぎゃんにフィードバックさせたり、林はガトー・バルビエリみたいなトーンで咆哮したり、キサキさんの刻みでロックのビートもあったりと、まだまだ稚拙だったけど、今の自分がビッグバンドなんかでやっていることの原型のようなものは、すでにこのバンドの中にほぼすべてあったように思う。林もオレもジャズもロックも大好きだったけど、その両方を混ぜて生まれたといわれる当時出てきたばかりのフュージョンは全然好きになれなかった。どっちの音楽の良さもなくなってしまった音楽にしか聴こえなかったからだ。オレたち流にジャズとロックの良さを生かした音楽をやるぞ!

 でもそれだけじゃ物足りなかった。フリージャズの良さとロックの良さが混ざったものこそがコントーションズだと思っていたオレは、そんな音楽もやりたくてうずうずしていたのだ。ってことで、こっちはオレが主導で別のバンドを始めた。高校時代ビートルズのコピバンでドラムをやっていた林にドラムを叩いてもらい、後にヒカシューのメンバーになる野本は買ったばっかりのど下手なアルトサックス。ベースは軽音楽部でロックをやっていてめちゃくちゃリズムの良いカトやん。思いっきり汚い音でノンコードでフリーキーにリズムを刻んで、メチャクチャなアドリブがからむ。歌はなし。そんなイメージだった。結成まもないある日このバンドにステージの話が舞い込んできた。明大本館の中庭で新入生歓迎の野外ライブがあるらしい。大学のサークルのバンドがいくつも出るやつだ。もちろん飛びついた。よっしゃ! めちゃくちゃやってやるぞ~。

 本番当日。天気は晴天。準備は万端。僕らの出番は午後2時からだ。昼休み会場について楽器をセッティングしてオレは飯を食いにいくことにした。腹が減っては戦はできないもん。こういうときに決まって行くのは御茶ノ水名物「いもや」の天丼。明大のすぐ裏にあって、当時は400円だったかな。350円だったかも。ここは大盛りを注文しても飯粒を残さなければ大盛り代がサービスになるんで、本当にありがたかった。もちろんいつも大盛りだ。時間は1時前でまだ余裕。この店は昼時いつも長い行列ができているけど時間的には余裕だし、オレは大盛りをたらふく食った。で、たらふく食って明大にもどったのが1時すぎ。中庭のほうからメチャクチャなサックスの音と同時にみなが騒いでいる声が聴こえて来る。おお! 僕ら以外にもコントーションズのコピバンがいるのか。なんかめっちゃ面白そう! オレは全速力で走って会場に戻った。会場に着くとちょうど演奏が終わったところで割れんばかりの拍手と歓声。ありゃ~、しまった。見逃してしまった。やっぱ前のバンドも見ておくべきだったと悔やんだ瞬間のことだ。ステージにサックスを持った野本の顔が見える。あれ? ドラムも林じゃん! そしてベースはカトやん。なぜか軽音楽部の後輩のツネミくんがギターを持って手を振りながら立っているじゃないの? え、え、どういうこと? あ、このツネミくんてのは、今やアラブ音楽のオーソリティで、日本一のウード奏者の常味裕司氏。当時彼は軽音楽部でロックギターを弾いていたのだ。とまあ、それはいいんだけど、みんな、なんでバンマスのオレなしで演奏してんだよ~。オレは烈火の如く怒った。

「どういうこと!?」

 事情はこうだ。オレがメシを食いに行った直後に何の事情なのか、前のバンドが出ないことになって、僕らに先にやってくれってことになり、みんなオレがいなくて困り果てたんだけど、コンサートは始めねばならず、仕方ないってことになり、かわりにその場にいたギターのツネミくんを入れてステージをやってしまったのだ。なんだよ、なんだよ、もう。オレはスネまくった。それにしても大学1年生だったツネミくん、本当にギターが図抜けて上手かった。彼にはなんの罪もないけど、オレは自分が出れなかったことが悔しくて悔しくて。この話、常味くん覚えているかな(笑)。

 ということで最初に作った、まだ名前も決まる前だったコントーションズバンドは、自分が出ることもなく、あえなく解散。でもさ、よくよく考えると、こんなんで自分の音楽やろうとしてたオレ、めっちゃダサくねえか。しょぼすぎないか。学校の中でコントーションズとか言ってること自体もなんか情けないし。そんなオレを見抜いてか、その日の夜、スネているオレに向かって林が一言。以下少々青臭い会話が続きますが、すいません、林もオレも20歳そこそこですから、勘弁してちょ。

「大友、スネてんじゃねえよ。いい加減にしろ」

「なんで待っててくれなかったんだよ~」

「あのなあ、あんな中庭の学内コンサートなんて大した問題じゃねえだろが。お前何目指してんだよ。プロでやってくとか言ってるくせに、なんか違わないか。こんなんでいいの?」

「そんなことわかってるよ。でもやりたかったもん」

「だいたいお前さ、なんのために音楽やってるの? お前に音楽やる理由なんて本当はないんじゃないの?」

「理由? そんなの必要なの?」

「あんなあ、音楽で何を表現するとかそういうことだよ」

「何をって、音楽に決まってんじゃん」

「だからさ、その音楽で何を表現するかだよ」

「……」

 オレは何も答えられなかった。そんなこと考えたこともなかったからだ。

「そういうお前には理由あんのかよ? 表現したい事があるのかよ」

「ある! お前には言えないけどある!」

「え!? それ、どういうこと?」

 あまりに林がきっぱり言うもんでオレは動揺した。

「お前にはわからないよ!」

 すいません、やっぱ思い出すだけで青臭くて恥ずかしいや。でもこのときの林の顔は忘れられないなあ。ものすごく大人に見えたというか、たかだか学内コンサートでスネてた自分がめちゃくちゃガキに思えて恥ずかしくなった。

 でもって、このやりとりの後オレが出した結論は、

「そうだ、学校の外に出るぞ」

 あ~、なんか、相変わらず単純でアホや。表現の話はどうなったんだ、大友! まあいいか。でもって、その日の晩、オレは学校の軽音楽部じゃないところで勝負をすることに決めたのだった。まあ、アホはアホなりに勇ましくなってきたってことかな。やれやれ、若造!

 オレは即興演奏専門のライブハウス荻窪の「グッドマン」に何度か足を運び、自分の演奏をカセットに入れて持って行き、ダメモトで、月一で即興演奏のライブをやらせてほしいとマスターにお願いしたのだった。

「チケット、最低でも10枚売るってのがうちの店の条件。カセットはあとで聴くから置いてって」

 やった~。嬉しかった。まずは第一歩だ。でもって次は御茶ノ水界隈の楽器屋やレコ屋に

「メンバー募集 即興演奏やりたし、高柳昌行やデレク・ベイリー、コントーションズが好み

 電話03-324-@@@@」

 という張り紙を……って書いても今の人に伝わるかな。当時はインターネットなんてなかったからメンバー募集は楽器屋の掲示板に張り紙したり、音楽雑誌の後ろのほうのメンバー募集のページを使うのが普通だった。そこに電話番号や住所を書いてメンバー募集してたんだから、ずいぶんと平和な時代だったのだ。コントーションズの前に高柳昌行やデレク・ベイリーの名前を書いたのは、自分なりに見栄を張ったんだと思う。

 家には黒い電話があったけど、当時は留守電機能なんて付いてなく、家にいるときしか電話はとれない。しばらくの間は寄り道せずに、家にまっすぐ帰った。でもって、黒電話の前に待機して電話をひたすら待った。

 ジリリリリン、お! 来たぞ。ベル1回で取るといかにも待ってたみたいで恥ずかしいから、4回ほどベルが鳴るのを待って、ゆっくり受話器を取った。余裕をもった声で、

「もしもし、大友です」

「おぅ! 林だけど、今日泊めてくんねえ」

「なんだよ、林かよ」

 ジリリリリン。

「もしもし、大友です」

「あんた、全然連絡こないけど、元気でやってるの?」

「なんだよ、お袋かよ」

 待てど暮らせどメンバー募集の電話は来ない。

 ジリリリリン、今度こそ。

「もしもし、大友です」

「あの~野本ですが」

「なんだよ、野本かよ、なに?」

「大友さん、張り紙いろんな店に貼ってるでしょ。オレも即興演奏混ぜてよ」

 結局未知の人からの電話は一本もなく、集まったのは、林に野本、カトやんと明大の軽音やジャズ研の連中ばかり。う~~ん、なんか学校の外でって威勢良く言ってたわりには、身内感が否めない。ってか顔ぶれ完全に一緒じゃん。考えてみればメンバー募集の張り紙、自分がいつも行く御茶ノ水界隈にしか貼ってないうえに、恥ずかしいから小さめの紙に控えめな字で書いただけだったんだから、応募が来ないの当たり前か。結局、あこがれのオーネット先輩、松藤さんにも声をかけて、僕らは初めてライブハウスに出ることになったんだけど、もうこの時点で、しょぼい予感しかないなあ。ということで、この続きは次回。

関連書籍

良英, 大友

ぼくはこんな音楽を聴いて育った (単行本)

筑摩書房

¥1,760

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入