ぼくはこんな音楽を聴いて育った・東京編

第3話 西荻「ピナコタ」の可児さんと桃井かおり
ローランド・カーク『ヴォランティアード・スレイヴリー』『天才ローランド・カークの復活』

お待たせいたしました! 大友良英さんの「ぼくはこんな音楽を聴いて育ったーー東京編」突如、連載再開! 大河ドラマ「いだてん」の音楽で大活躍中の大友さんのルーツを探る!大学時代編。

 わ~~、ごめんなさい、ごめんなさい。連載ちゃんとやると宣言しておきながら、1年もたってしまいました。いやね、忘れていたわけじゃないんです。ほんまほんま。書かなきゃ、書かなきゃって思ってたんです。でもちょっとバタバタしてたら1年もたってしまって……。わ~、もう、ほんと、ごめんなさい(土下座)。

 こんなに間があいてしまったら、せっかく楽しみにしてくれていたみなさんも、前回まで何書いたかとか忘れちゃってますよね。そんなわけで改めてあらすじを。時は1979年春、福島での超さえない浪人生活をへて、大友青年はなんとか明治大学の夜学に入り上京。でも入学早々、学生運動のマッチョな感じに当てられてしまって、授業にはほとんど出ることもなく、学食前でオーネット・コールマンを練習してる松藤先輩を見つけそのままジャズ研に入学。あ、入学じゃなくて入部ですね。でもって新歓コンパで記憶がなくなるくらい呑んで、気付いたら翌朝どころか翌昼。しかもオーネットの先輩のアパートでドルフィーを聴きながら吐くという失態……ってところで連載2回目にして中断という体たらくでございまして。情けない。今も昔も相変わらず情けないぞ、大友! んじゃまあ、気をとりなおして続きから行きますね。

 

 とまあ、なんだかんだと入部早々いろいろありましたが、それでもオレは、このちょっとだけだらしない感じのジャズ研にあっという間に馴染み、1ヶ月もしないうちに友達と呼べるような仲間ができ、ほとんど毎日部室に入り浸り、部室の閉まる時間になるとみなでつるんで夜の街に出ては吞めもしない酒を呑み、帰りは決まって代田橋にあった6畳一間のオレのアパートにってのが定番のコースになってしまったのでした。せっかくの一人暮らしだってのに、アパートで一人ギターを練習したりとか、じっくりと音楽聴いたり哲学的な本を読んだりとかの時間がほとんどない状態。なんだかんだとずっとつるんできた福島時代からの先輩でサックス吹きの大森くんに至ってはほぼ毎晩来る始末で、おかげでエッチな本もこっそり見れないじゃないの、もう。なんだよ、そっちかいなってつっこまれそうですが。あまりにも毎晩人が来るもんだから、そのうち隣に住んでいた人の良さそうなどこかの工場で働いていたおじさんが怒鳴り込んできて、僕らは平謝り。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ほんとごめんなさい。もうしませんから」

 で、1時間後にはまた大騒ぎで再び怒鳴り込まれて……。こんな若造が隣に住んで毎晩騒いでいたら、今ならマジふざけるなって思うけど、当時はそんな常識もなかったというか、きっと皆親元をはなれて自由になれて、それこそ調子に乗ってたんだろうなあ。隣のおじさんには本当に申し訳ないことをしてしまった。それにしても何がそんなに楽しかったのかなあ。

 このときよく泊まっていったのは、大森くん以外にも1年生のサックス吹きのハヤシやトランペットのスズキ、ギター弾きのツガルにドラムのナシロってあたりかな。他にもいっぱいいた。でもってこのメンバーでよく行ったのが西荻窪にあった「ピナコタ」って店だった。週に2、3回は行っていたなあ。なにしろ店長が大森くん。ま、店長といっても雇われのバイト店長だったけど、彼が店長の日は、僕らの好きなタイプのジャズしか流れないし、なにしろめちゃくちゃ安かった。千円もあれば十分吞めたんじゃないかな。カウンターしかない店で8人も入ればいっぱいで、店にはジャズ研1年生の僕らとご近所の常連さんしかいなかった。ホンダさんて名前のジャズギターのすごい上手い人とか、髭面で「いだてん」に出てくる可児(かに)さんに似た感じのいつも酔っ払っている青年とおっさんの間くらいの人とか、あとはときどき出会った、とっても美人の、僕らにはとても手が出ないような仕事のできそうなお姉さんとか、そんな人たちが常連さんで、そんな人たちの間にいると、なんだか大人になったような、東京の人になれたような感じがしていたのかもしれない。あるとき可児さんが

「向かいのでっかいマンションでね、オレ、あそこで桃井かおりを何度も見かけたんよ。多分住んでるのかな。住んでるんだろうね、きっと。いや~それがテレビで見るよりずっと綺麗でね……」

 なんて情報をもたらすもんだから、オレはめっちゃ興奮した。発情したといっても過言じゃない。アホだったのよ。それ以来オレはいつも「ピナコタ」に行くときには向かいのマンションの玄関を凝視した。いつか会えるんじゃないかと思って。

 この「ピナコタ」でオレやハヤシが繰り返しリクエストしたのがローランド・カークの『ヴォランティアード・スレイヴリー』A面。あ、A面といっても、この店にはレコードプレイヤーがなくてカセットデッキだけだったんで、きっとだれかがA面だけをカセットに録音して持ってきたんだと思う。店に行くとまずはこいつを聴いて、そのあとはハヤシが大好きなコルトレーンの激しいやつ。でもってジム・ホールとビル・エヴァンスの『アンダーカレント』。それからもちろんドルフィー。で、いろいろ聴いて最後はまたローランド・カークの『ヴォランティアード・スレイヴリー』A面。聴いてもらえばわかるけど、このアルバム、もちろんジャズなんだけど、なんか芸術っぽい立派な感じがしないのよ。雑な感じとでもいうか、へんなサイケ感があるというか、ストリート感とでもいったらいいのかな。どのジャンルにもはまらない整理されてない雑然とした感じとか、上手いんだか下手なんだかわからない微妙だけどすごい勢いのリズムセクションとか、なんかタンバリンだけたたいてるおっさんが入っているとか、カーク本人も興が乗るとサックスを複数同時に吹くだけじゃ飽き足らず叫びだしたり歌い出したり。なんだかメチャクチャなのに楽しくてなんでも受け入れてしまうような感じが素敵でですね、このローランド・カーク1968年録音の『ボランティアード・スレイバリー』のA面には音楽の理想郷があるような感じがして、今に至るまでオレのフェイヴァリットレコードであり続けているのです。

 「ピナコタ」のあとにハヤシとともにオレのアパートにもどったときに必ず聴いたのが同じローランド・カークの『天才ローランド・カークの復活』というものすごい日本語のタイトルがついたアルバム。二人で「くぅ~~~このフレーズがたまら~~ん」とか半分泣きながら聴きまくったのだ。え? 男が二人で気持ち悪いって。まあ、冷静に考えるとそうなんだけどさ、でも、当時はそんな風にして毎晩毎晩音楽を聴いていた。隣のおじさんの苦情がこないように二人でスピーカーに耳をくっつけながら。そんなこともあってか、このローランド・カークの2枚はオレの音楽に今でも強い強い痕跡を残してくれているんじゃないかな。

 カークを一緒に聴いたサックス吹きのハヤシは、実家住まいだったこともあって、多分家にあんまり帰りたくなかったのかもしれない。大森くんに次いでよく泊まりにきていた。野暮ったい田舎青年丸出しだったオレと違って、東京育ちの彼は、ボロボロの服を着ていてもなんだかとっても垢抜けてオレには見えたなあ。このハヤシに、オレはその後ものすごい影響というか人生が変わるくらいの衝撃というか、そんなもんを受けることになるんだけど、その話はまたいずれしなくては。

 ところでオレはいつまでたっても桃井かおりには会えなかった。これだけ「ピナコタ」に通っているのに。カークを聴いているときにも窓からそれとなく向かいのマンションを見ていたのに。

「可児さん、可児さん、あのさ、桃井さんに全然会えないんだけど本当にあそこに住んでるの」

「あ、あれね、たいぶ前に越したらしいよ。あはは、純情やね~大友くんは。桃井さんよりさ、彼女とかおらんの。ジャズ研にかわいい子おらんの? ねえ、ねえ。いたら紹介してや。あはは」

 あははじゃないよ、もう。

 

 

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